太融寺
本堂
所在地大阪市北区太融寺町3-7
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度42分6.5秒 東経135度30分14.7秒 / 北緯34.701806度 東経135.504083度 / 34.701806; 135.504083
太融寺(たいゆうじ)は、大阪市北区太融寺町にある高野山真言宗の準別格本山の寺院。山号は佳木山。本尊は千手観音。新西国三十三箇所第2番札所。
嵯峨源氏の祖である嵯峨天皇第十二皇子[1]源融ゆかりの寺で、古くから当寺付近の地名にもなっている[2][3]。
「大融寺」と誤記されることもあり、中近世の文書に多い。 伝承によれば、弘仁12年(821年)、空海(弘法大師)がこの地にあった霊木から地蔵菩薩と毘沙門天を作製し、それを祀る草庵を結んだことが当寺の始まりとされる。翌年には嵯峨天皇の勅願により空海が天皇の念持仏である千手観音を本尊として正式に寺院としたと伝える。 承和10年(843年)に嵯峨天皇の皇子である左大臣源融によって境内地が広げられ、八町四面の七堂伽藍が建立された。その際、山号を佳木山とし、源融の諱から寺名を太融寺と改めた上、鎮守社として神野太神宮(現:綱敷天神社)も創建されている。以後は浪華の名刹として参詣者で賑わった。 慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の兵火で全焼するが、元禄年間(1688年 - 1704年)に本堂など25の諸堂が再建される。 1880年(明治13年)には当寺で国会期成同盟が結ばれて全国に自由民権運動が広まっていった。 1945年(昭和20年)6月1日の第2回大阪大空襲により再び全焼してしまうが本尊は無事であった。戦後になって本堂、大師堂を始め20余りの堂宇が再興された[4][5]。 1970年に起きた天六ガス爆発事故や1972年に起きた千日デパート火災では、犠牲者の遺体安置所となった[6]。
歴史
境内
本堂 - 1960年(昭和35年)再建。
厄除弘法大師像
一願堂 - 不動明王(一願不動尊)を祀る。1986年(昭和61年)建立。
北野辯財天
榎木稲荷
奥之院
宝塔 - 1986年(昭和61年)建立。
護摩堂 - 1986年(昭和61年)再建。
大師堂 - 空海(弘法大師)を祀る。1986年(昭和61年)再建。
客殿
寺務所
東門
八角堂
横綱玉の海正洋の碑
国会期成同盟発祥之地の碑
庭園「九山八海庭」
南門
本坊 - 写経会や座禅会の他、桂米朝一門を筆頭に落語会なども催されている。落語の亭号の「桂」は山号の「佳木山」が由来とされている。
鐘楼 - 1973年(昭和48年)再建。
西門
白龍大社 - 女性の縁結びの神として信仰を集めている。
龍王大神 - 男性の縁結びの神として信仰を集めている。
淀殿の墓 - 六重石塔。東成郡鴫野村
北門
西門
鐘楼と右奥に白竜明神。その間に水子地蔵尊と淀殿の墓。
摩尼車
九山八海庭
客殿(右側白い建物)、一願堂(左)、一願堂下方に、大師堂、護摩堂がある。
一願堂
大師堂
護摩堂
白竜明神(真中)、ぼけ封じ観音(右)
本坊
文化財
大阪市指定有形文化財
木造千手観音菩薩立像
行事
毎月28日 一願不動尊 護摩供
前後の札所
新西国三十三箇所
客番 清水寺 - 2 太融寺 - 3 鶴満寺
近畿三十六不動尊霊場
5 報恩院境内 - 6 太融寺不動堂 - 7 国分寺護摩堂
摂津国八十八箇所
5 持明院 - 6 太融寺 - 7 富光寺
おおさか十三仏霊場
7 全興寺 - 8 太融寺 - 9 国分寺
大坂三十三所観音めぐり
1 太融寺 - 2 蟠龍寺
なにわ七幸めぐり(無病息災)
神仏霊場巡拝の道