この項目では、高麗王について説明しています。その他の同名人物については「王建」を、その他の太祖については「太祖」をご覧ください。
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出典検索?: "太祖" 高麗王
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太祖 王建
高麗
初代国王
太祖神聖大王
1992年に発掘された王建の銅像として知られている。
王朝高麗
在位期間918年7月25日 - 943年7月4日
都城鉄原→松嶽(開京)
姓・諱王建
字若天
諡号応運光烈大定睿徳章孝威穆仁勇神聖大王
廟号太祖
生年乾符4年1月14日
(877年1月31日)
没年天福8年5月29日
(943年7月4日)
父王隆(世祖)
母韓氏(威粛王后)
王后・王配神恵王后(貞州柳氏)
荘和王后(羅州呉氏)
神明順成王后(忠州劉氏)
神静王后(黄州皇甫氏)
貞徳王后(貞州柳氏)
子女下記参照
陵墓顕陵
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太祖 (高麗王)
各種表記
ハングル:?? / ?? / ????
漢字:太祖 / 王建 / 神聖大王
発音:テジョ / ウァンゴン / シンソンデウァン
日本語読み:たいそ / おうけん / しんせいだいおう
ローマ字:Taejo / Wang Geon / Sinseong-Daewang
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太祖(たいそ、877年1月31日 - 943年7月4日)は、初代高麗王(在位:918年 - 943年)。名は王建(おう・けん、ワン・ゴン)。字は若天。諡号は応運元明光烈大定睿徳章孝威穆神聖大王。 王建の先祖は、中国の唐の皇帝の粛宗または宣宗[注 1]である。彼が新羅に来た時に、新羅人女性である康辰義との間に王帝建を儲けた[1][2][3]。 王帝建は父を探すため唐に渡ろうとした。 王帝建の母である康辰義は、その父を康宝育といい(王帝建の母方の祖父)、康宝育の先祖は春秋戦国時代の衛国の初代康叔である。康叔の長男は衛国の第2代を継いだ。これが衛の康伯である。康叔には次男(康伯の弟)がいて、その67代子孫[4][5]の康虎景の息子が康忠(68代子孫)である。康忠は、伊帝建と康宝育を儲けた。康宝育は『高麗史』によると高句麗の大族であった[注 2][注 3]。康宝育は姪の徳周を娶り、康辰義を儲けたのである。 王隆(ワン・リュン)は松嶽(ソルガム・現在の開城)を拠点に半島西南の海岸部で貿易で財をなす豪族となった。王建は乾符4年(新羅の憲康王3年)1月31日に王隆と威粛王后との間に生まれた[3]。王建が生まれた時、母はすでに死去しており墓の下に埋葬された後だった。生まれたばかりの赤ん坊だった王建は、棺の蓋や墓石を押しのけて地上に出た。これは王権の始祖が玉・丸石・卵・岩石などから生まれるというイラン系の王権起源譚に、南方系の死体化成神話や太陽復活神話が混合したものである。 王建の第2后妃荘和王后呉氏は、三国時代に中国から帰化した貴族の後裔であり、したがってその子の第2代高麗王恵宗が中国人の血を引いている事は公式に認められている。
出自王建
系譜
曾祖父・唐の皇帝
祖父・王帝建
父・王隆
出自論争
中国人説 中国の吉林省中国社会科学院歴史研究所の史長楽は、吉林省中国社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』2007年第3号において、933年に後唐の明宗が王建に送った冊封詔書などを根拠に、王建は中国の淮河流域から来た漢人の末裔との説を唱えている。冊封詔書の「卿(王建)は長淮の茂族」という一節があり、史長楽は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国」と述べている。また、冊封詔書のうち「朱蒙が開国した地のよい縁起を追ってその軍将になり、箕子が作った蕃国の形跡を踏んで幸福と和楽を得る」という一節を、史長楽は「この言葉は、高麗は中国出身統治者が建てた国という意味」と述べている。その理由に「王建の建国を朱蒙の開国と箕子の立国に直接比喩したのは、朝鮮半島の歴史で二人に続いてもう一人の中国出身統治者が生まれたという意味であるから」と述べている[8][9]。後唐は933年に王瓊と楊昭業の使者を高麗に派遣し、王健を高麗国王に冊封したが、『高麗史』には、王建と妻の柳氏の冊封調書、冊封及び物品を送った調書、三軍に国王冊封を知らせる調書など四通の調書が記載されているが、妻の柳氏の冊封調書には「又詔曰卿長淮茂族漲海雄蕃以文武之才控?土宇以忠孝之節來化風」という節があり、長淮