太田駅
北口(2017年4月)
おおた
Ota
(株式会社SUBARU前)
太田駅(おおたえき)は、群馬県太田市東本町にある東武鉄道の駅である[1]。駅番号はTI 18[1]。 伊勢崎線・桐生線・小泉線の3路線が乗り入れており、桐生線は当駅が起点、小泉線は当駅が終点となっている。 1909年(明治42年)2月17日に東武伊勢崎線が足利町駅(現・足利市駅)から当駅まで延伸したのに伴い、開業したのが始まりである[3][4]。開業当日は駅前広場で三横綱を招請して大相撲が行われるなど記念行事が行われ、盛況となった[3]。 1910年(明治43年)3月27日には東武伊勢崎線が当駅から新伊勢崎駅まで開通し、中間駅となった[3]。 人車軌道を運営していた藪塚石材軌道が太田軽便鉄道に改称して建設を進めていた路線を1913年(大正2年)3月5日に東武鉄道が買収し、同年3月19日に桐生線として当駅から相老駅間が開通した[3][注釈 1]。 1927年(昭和2年)10月1日に東武伊勢崎線の館林駅 - 伊勢崎駅間、1928年(昭和3年)3月1日には桐生線の当駅 - 相老駅間と当駅周辺の路線が相次いで電化された[3]。 近隣の大光院の一角にあった東武鉄道所有の博物館で中島知久平が設立した飛行機研究所が中島飛行機として急速に拡大して太田が工業都市として発展したため[3]、1941年(昭和16年)4月に[5] 総工費16万円を掛けた2階建て延べ建坪585坪の新駅舎が竣工し[3]、当時東武線随一とも言われた[5] 新駅舎の2階には貴賓室、大衆食堂が配置された[3]。同年6月1日には小泉線が中島飛行機小泉製作所への輸送を目的として当駅から小泉町まで開通するなど整備が進められた[3]。 中島飛行機がアメリカ軍による空爆の主要な対象の一つとなっており、1945年(昭和20年)4月4日に空襲を受けた[3]。この空襲では、駅舎などの建物約1,067坪が全焼し、線路約350mに加えて電車線が約250m、送配電線約2,600m、通信線約23,000mが破壊された[4]。 その後、バラックの駅舎で仮復旧し、1954年(昭和29年)2月に新駅舎を開設して本格的に復旧した[3]。 当駅の南側は水田地帯であったが、「九合地区土地区画整理事業」として整備が進められ、1966年(昭和41年)12月に南口を開設した[3]。 高架化される前は、当駅の北側と南側は立体交差する車道と地下歩道のみで接続しており、町が分断される形となっていた[6]。
歴史・概要
沿革
1909年(明治42年)2月17日 - 東武伊勢崎線の足利町駅(現・足利市駅) - 当駅間が開通し、開業[3]。
1910年(明治43年)3月27日 - 東武伊勢崎線の当駅 - 新伊勢崎駅間開業[3]。
1913年(大正2年)3月19日 - 桐生線の当駅 - 相老駅間が開通[3]。
1927年(昭和2年)10月1日 - 東武伊勢崎線の館林駅 - 伊勢崎駅間電化[3]。
1928年(昭和3年)3月1日 - 桐生線の当駅 - 相老駅間が電化[3]。
1934年(昭和9年)11月16日 - 県内で行われた陸軍特別大演習終了後に昭和天皇が県内を巡幸。