太田雄貴
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大田祐樹」あるいは「太田優姫」とは別人です。

太田 雄貴


2014年1月18日、ワールドカップにて
基本情報
国籍 日本
誕生日 (1985-11-25) 1985年11月25日(38歳)
身長171cm[1]
利き手右
種目フルーレ

獲得メダル

日本
男子 フェンシング
オリンピック
2008 北京フルーレ個人
2012 ロンドンフルーレ団体
世界選手権
金2015 モスクワフルーレ個人
アジア競技大会
2006 ドーハフルーレ個人


太田 雄貴(おおた ゆうき、1985年11月25日 - )は、2000年代から2010年代にかけて活躍した日本のフェンシング選手(種目はフルーレ)。日本初のフェンシング銀メダリスト。公益社団法人日本フェンシング協会元会長。国際フェンシング連盟理事。IOC委員。京都府生まれの滋賀県大津市育ち。大津市立比叡平小学校平安中学校→平安高等学校を経て、同志社大学商学部卒業。現役当時は森永製菓所属だった。右利き。キレのあるアタックを特徴とする。妻は元TBSアナウンサーの笹川友里[2]
来歴

幼少時代は、滋賀県大津市比叡平にて過ごす。小学時代はスポ少「大津スキースポーツ少年団」にてスキーや陸上トレーニングなどで基礎体力を養う。高校時代にフェンシングをしていた父の勧めで小学3年生からフェンシングを始め、小、中学と共に全国大会を連覇している。平安高校時代には史上初のインターハイ3連覇を達成し、高校2年の時には全日本選手権で優勝した(2023年現在最年少記録)。

2004年1月から岡崎直人、山口徹らとアテネオリンピック出場権をかけて多くの国際大会に出場した。3月の韓国国際大会で8位入賞を果たすとその後も確実に上位に進出して出場権を獲得。アテネオリンピックでは3回戦でロシアのGANEEV Renalに敗れ、9位となった。

2006年、カタール・ドーハで開催されたアジア競技大会では、準決勝で2005年の世界選手権2位の張亮亮( 中国)を破る大金星を挙げ勢いに乗り、決勝では李天雄( 韓国)を破って優勝。フェンシング男子フルーレ個人では1978年バンコク大会以来28年ぶりとなる金メダルを獲得した。

2008年、北京オリンピックフェンシング男子フルーレ個人に出場、日本人選手初の決勝戦へ進出。8月13日の決勝戦ではベンヤミン・クライブリンク ドイツ)と対戦し9 - 15で敗れるが、日本フェンシング史上初の五輪メダルである銀メダルを獲得した[3][4]。また、太田が銀メダルを獲得するまでは、フェンシングは1896年の第1回アテネオリンピックで正式競技に採用された8競技の中で、日本が唯一五輪メダルを獲得していない競技であった。

銀メダル獲得直後のインタビューで「就職先募集中」と語っており[5]、大学院に進むことも示唆していたが、複数のオファーの中から、高校時代からサポートを受けていた森永製菓に2008年11月1日入社した[6][7]。森永製菓での所属は「健康事業本部ウイダー事業部マーケティング担当」[8]

2009年4月より、森永製菓所属のままフランスのフェンシングのクラブチーム「エクス=アン=プロヴァンス」に期限付きで在籍[9]。渡仏2戦目となる4月5日の「ルブニュー・チャレンジ」で同チーム加入後初優勝。決勝では北京五輪で敗れたクライブリンクを破っての優勝だった[10]。5月、日本選手で初めて国際フェンシング連盟ランキングの1位となる。同年6月にフェンシング・ワールドカップハバナ(キューバ)大会で5年ぶりの勝利をあげた[11]オリンピック凱旋パレード(2012年8月19日撮影)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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