太田鉄道
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太田鉄道種類株式会社
本社所在地 日本
茨城県久慈郡太田町[1]
設立1893年(明治26年)12月[1]
業種鉄軌道業
代表者社長 佐藤信次[1]
資本金357,910円(払込高)[1]
特記事項:上記データは1901年(明治34年)現在[1]
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太田鉄道(おおたてつどう)は茨城県水戸市久慈郡太田町(現常陸太田市)を結ぶため建設された私設鉄道およびその運営会社である。多額の負債をかかえ水戸鉄道(2代)へ事業譲渡され、後に国有化され東日本旅客鉄道(JR東日本)水郡線の一部となった。
歴史
太田鉄道

水戸市-太田町間の鉄道構想は1887年(明治20年)茨城県北部の有志が太田町に集まり馬車鉄道敷設を討議したことに始まる。そして敷設費用調査と、貨客の数量の調査をはじめることになった。一方1889年(明治22年)には水戸-小山間を開業していた水戸鉄道(のちのJR水戸線)に対し太田町への敷設の意志を照会していた。しかしその意思が無いことがわかり1890年(明治23年)に発起人総会を開き水戸-太田間に馬車鉄道を敷設することを決議、測量技師の磯長得三[2]の調査により工事可能との回答をうけ敷設調書を作成し、1891年(明治24年)に当局へ必要書類を提出した。このとき会社名は常北馬車鉄道[3]とし、創立事務所を水戸市に置いた。賛同者は大田町長、幸久村長をはじめ地元の有力者たち45名であった。

1892年(明治25年)7月18日 馬車鉄道敷設特許状が下付されたので大田町で会議を開き工事着手の手順を協議していたところ席上軽便鉄道に変更したい旨の動議がおこった。そこで再び磯長得三に調査を依頼し、可能であるとの回答を受け新たに太田鉄道を起こすこととし、資本金は16万円、株数は3200株うち970株を発起人で引き受けることを決めた。そして11月に軌間762mmの小機関車鉄道に変更することを願い出た[4]。発起人は39名うち14名は太田町出身者でほかは久慈、那珂郡そして水戸市出身者であった。1893年(明治26年)4月8日 仮免状が下付された。8月に創立総会をひらき取締役5名と監査役3名を選出。9月に 佐藤信?(第百四国立銀行取締役[5])を社長に選出した[6]。12月24日に本免許状が下付され[7]、1894年(明治27年)7月になり磯長得三を技師長として水戸-久慈川間を起工した。

ところが水戸-久慈川間の工事は12月末に完成したものの折悪しく日清戦争による不況により株金の払込が滞るようになりその後の工事に支障がでるようになる。久慈川の架橋工事の困難さに加え、主任技師が応召して代わりが見つからなかったこと、久慈郡幸久村と那珂郡額田村両岸から同時着工しないと洪水発生のおそれがあることから1年以上にわたり村との交渉に費やされ、1895年(明治28年)10月になり幸久村沿岸の先行工事で決着をみることになった。また役員や株主間の軋轢及びそれに起因する社長更迭により会社の業務は停滞し、反主流派は株金の払込遅滞や土地買収の妨害をするなど問題が起きていた。こうしたなか1895年(明治28年)1月に社長の佐藤信?が辞任し小山田信蔵[8]が就任した[9]。当初小山田は固辞したものの追加発起人で100株を引受た侯爵徳川篤敬(水戸徳川家)の依頼により社長に就任する[10]。12月の臨時株主総会で水戸駅で日本鉄道と連絡する関係から軌間1067mmの普通鉄道にすること、資本金を34万円にすることを決議した。しかし1896年(明治29年)4月普通鉄道の認可はおりたものの金策で行き詰まり工事は進まず経営不振の責任をとり1896年(明治29年)12月役員全員が辞任する。

1897年(明治30年)3月に臨時株主総会を開き不足する建設資金と既借入金返済のため十五銀行より20万円を借入れることと未払いの株主に対し権利を失効させることを決議。そして空席の社長に飯村丈三郎[11]が就任することになったが早くも5月に辞任してしまう。かわって6月に久能木宇兵衛が社長に就任した[12]。久能木は資本金を68万円に増資し、工事続行するために金策に奔走したがさらに借入金を重ねて11月16日水戸 - 久慈川間が開業を見ることになる。しかし終点の久慈川は久慈川架橋工事が未完成のため額田村久慈川河岸に一時的に設けられたもので、太田町へは馬車を使わねばならず不便であり当然利用者は少なく、営業収入も予想を下回っていた。このため久慈川-太田間の工事を進めることとし1899年(明治32年)2月銀行から5万円の借入した。そして元日本鉄道建築課長長谷川謹介に工事監督を委嘱[13]しついに久慈川鉄橋が完成し4月1日久慈川 - 太田間開業をみることになった。しかし営業成績は上向かず、8月に久能木社長以下役員全員が辞任した。さらに9月の役員選考では選ばれた全員が辞退し社内は混迷した。再び開かれた臨時株主総会でようやく佐藤信次が社長に就くことになる[14]

1900年(明治33年)6月の決算では5万3千円余の欠損が発生。建設金は58万9479円。資本金68万円のうち払込みは35万7910円にすぎず借入金は25万円もあった。利子の支払も滞り株主の中には鉄道売却の意見もでてくるようになった。こういったなか臨時株主総会を開き鉄道売却の議案を提出を図ろうとしたところ反対派の株主達が太田区裁判所に申請し仮処分の執行により総会を差し止められる。それでも7月になると鉄道売却派を中心に臨時株主総会を開き一切の事業を水戸鉄道(2代)へ売却することを決議[15]。、さらに8月には会社の任意解散と清算人の選定の件で臨時株主総会を開こうとしたところ再び反対派の株主達が水戸地方裁判所に仮処分の申請をし総会を差し止められる事態となった。内紛がおさまらいため鉄道の運行を休止する。10月に臨時株主総会を開き役員を総取替して再度鉄道譲渡及び会社任意解散を諮ろうとしたところ、また反対派の上訴により東京控訴院の命令で停会の措置を受けることになった。

こうして紛糾した鉄道譲渡問題も裁判所の和解勧告や取引銀行の介入、政界有力者の助言により反対派も軟化をみせ1901年(明治34年)4月の臨時株主総会において全事業を28万円[16]で水戸鉄道(2代)へ譲渡及び太田鉄道の任意解散が決議されることになった。 そして10月21日 太田鉄道が水戸鉄道(2代)に全事業を譲渡し運行を開始。これに伴い太田鉄道は解散した[17]
水戸鉄道

水戸鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
東京府東京市麹町区永楽町2丁目[18]
設立1901年(明治34年)10月[18]
業種鉄軌道業
代表者社長 安田善助[18]
資本金500,000円(払込高)[18]
特記事項:上記データは1934年(昭和9年)現在[18]
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会社発足時の役員[19]は専務取締役に伴野乙矢(十五銀行支配人[20])、取締役成瀬正恭(十五銀行副支配人兼預金課長[20])、中根虎四郎(安田銀行庶務部長[19])と十五銀行と安田銀行関係者であったが、まもなく安田銀行関係者はぬけてしまう[21][22]。本社は東京の十五銀行内であり、株主はわずか9人であった。この時代は設備改善もされず[23]「日々の僅かな運賃収入から徐々に回収していく[24]」状況であったとみられる。

十五銀行は水戸鉄道(2代)の売り先を探していたが安田家から借金をしていた元太田鉄道社長の小山田の仲介により1907年(明治40年)8月15日水戸鉄道(2代)株2600株全部を285000円で安田家が取得した[25]。本社を日本橋区小舟町3丁目に移転。役員も太田弥五郎(善次郎の妹婿)、杉田巻太郎、藤田善兵衛、安田善之助、安田善彦(善次郎の養子)ら安田家関係者に変わった[26]

1910年(明治43年)軽便鉄道法が交付され、水戸鉄道(2代)は1911年(明治44年)2月軽便鉄道に指定された。このころ鉄道院では勝田から大宮に至る軽便線の建設を計画していた[27]。この路線が建設されれば死活問題となる水戸鉄道(2代)は1915年(大正4年)12月21日に上菅谷から大宮に至る路線を申請し、1916年(大正5年)3月鉄道免許状が下付された[28]。1918年(大正7年)6月上菅谷 - 瓜連間、10月瓜連 - 常陸大宮間開業。この建設により福島(郡山)地方への重要な連絡路の役割をはたし貨客の輸送量は増大し経営は好転していった[29]


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