太田道真
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 凡例太田資清
時代室町時代中期 - 戦国時代前期
生誕応永18年(1411年
死没長享2年8月3日1488年9月8日)/明応元年(1492年
別名源六郎(通称)、道真(法名)
戒名自得院殿実慶道真庵主
官位左衛門大夫備中守
幕府室町幕府相模守護代
主君上杉持朝政真定正
氏族太田氏
父母父:太田資房
正室長尾景仲の娘
資長資忠、資常、世禰姫
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太田 資清(おおた すけきよ)は、室町時代中期から戦国時代前期の武将相模守護代扇谷上杉家家宰摂津源氏の一門太田氏出身。長尾景仲とともに「関東不双の案者(知恵者)」と称された。父は太田資房。正室は長尾景仲の娘。子に資長(道灌)、資忠など。法号は道真(どうしん)。
生涯
関東の知恵者

太田氏は扇谷上杉家の家宰の家柄で、資清は上杉持朝に仕え家宰職と共に相模守護代を務めた。若年より文武に励んだ優れた武将で、関東の諸将は草木が風になびくように彼に従ったという。殊に歌道に優れ、後にやはり有名な歌人となる嫡子資長(道灌)よりも、この道では勝っていた。

永享11年(1439年)、鎌倉公方足利持氏関東管領上杉憲実山内上杉家)が対立して永享の乱が起きる。資清の主君扇谷家は山内家に味方し、持氏は幕府軍の追討を受けて滅びた。この戦いで持氏残党の一色氏を討った武将に「太田備中守資光」の名がみえ、資清の史料上の初出と考えられている。

文安4年 (1447年)、上杉家の願いにより鎌倉公方再興が許され、持氏の遺児成氏が鎌倉公方に迎えられ、山内家当主の上杉憲忠が関東管領に就任した。憲忠が若年だったために、山内家家宰で資清の義父にあたる長尾景仲がこれを補佐した。一方、扇谷家も当主の持朝が持氏を永安寺で攻め殺した張本人だったためか、隠居して家督を嫡男の顕房に譲った。顕房も若年だったために資清がこれを補佐した。両上杉家を支える景仲と資清は「関東不双の案者(知恵者)」と呼ばれた。

文安4年(1447年)の書状で道真とあるので、この頃に資清は出家しているようだ。
関東大乱

成氏は父を殺した憲実の子の憲忠を憎んでことごとく対立するようになった。宝徳2年(1450年)、景仲と道真は鎌倉の成氏の御所を不意に襲った。成氏は江の島へ逃れ、小山氏千葉氏宇都宮氏らの味方を得て反撃し、由比ヶ浜で合戦になった。仲介が入って両者は和睦したが、遺恨が残った(江の島合戦)。

成氏と憲忠の反目は深まり、享徳3年(1454年)12月、成氏は憲忠を暗殺してしまった。景仲は憲忠の弟房顕を山内家当主に迎えて翌康正元年(1455年)、上杉方は反撃に出て武蔵分倍河原で成氏と戦うが大敗を喫し、顕房が戦死してしまう。道真は顕房の子の政真を家督に立てるが、幼児にすぎず、先代の持朝が家督に復帰することになった。

その後、成氏は幕府軍の攻撃を受けて鎌倉から逃れ、下総古河城に拠って古河公方と呼ばれるようになる。古河公方と両上杉家との抗争は享徳の乱と呼ばれ、その後、30年近く続くことになる。

康正2年(1456年)、道真は嫡子資長に家督を譲った。しかし、隠居はせず実権は持ち続けていた(家督を譲ったのは寛正2年(1461年)とも)。

古河公方との戦いのために、康正2年から長禄元年(1457年)にかけて道真、資長父子は河越城埼玉県川越市)、岩槻城(埼玉県さいたま市)、そして江戸城東京都千代田区)を築いた(岩槻城については、道真・資長父子でなく成田正等による築城説が今は主流である)。

資長が江戸城を居城としたのに対して、道真は主に扇谷家の本拠となった河越城を守り、主君持朝を補佐していたらしい。文明元年(1469年)に、道真はこの河越城で著名な歌人宗祇心敬を招いて連歌会を催し、これは「河越千句」として有名である。道真の連歌は宗祇が編纂した『新撰菟玖波集』に収められている。

長禄2年(1458年)、8代将軍足利義政の異母兄政知が関東に下向、伊豆に留まり、堀越公方と称された。しかし、政知は持朝と対立、寛正2年(1461年)に持朝の相模守護活動が停止され、翌年に持朝謀反の噂が流れ、政知の執事渋川義鏡の讒言によって扇谷家重臣の三浦時高大森氏頼千葉実胤らが隠遁した。


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