太田道灌
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 凡例太田 道灌 / 太田 資長
太田道灌画像(大慈寺所蔵、伊勢原市指定文化財)
時代室町時代後期
生誕永享4年(1432年
死没文明18年7月26日1486年8月25日
改名鶴千代(幼名)→ 資長 → 道灌(法名
別名:持資
戒名大慈寺殿心円道灌大居士
香月院殿春苑静勝道灌大居士
墓所神奈川県伊勢原市大慈寺
神奈川県伊勢原市洞昌院
官位正五位下備中
幕府室町幕府武蔵守護代
主君上杉持朝政真定正
氏族太田氏
父母父:太田資清、母:長尾景仲の娘
資康
養子:資忠資雄資家
花押
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太田 道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期に関東地方で活躍した武将武蔵守護代扇谷上杉家家宰摂津源氏の流れを汲む太田氏は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城し、武将としても学者としても一流という定評があった[1]

以降、本項では便宜上「道灌」の呼称を使用する。
生涯
幼少期建長寺総門

永享4年(1432年)、鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰を務めた太田資清の子として生まれた。幼名は鶴千代。埼玉県越生町では、江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』の記述から、町内の大字龍ヶ谷山枝庵(さんしあん)を生誕地とする伝承がある[2]

『永享記』などによると鎌倉五山(一説によれば建長寺)で学問を修め、足利学校栃木県足利市)でも学び、文安3年(1446年)に元服し、資長を名乗った(初名は持資とする説もある)。享徳2年(1453年)1月、従五位上に昇叙し(従五位下叙位の時期は不明)左衛門少尉は如元(左衛門大夫を称する)。
家督相続

関東管領上杉氏は山内上杉家犬懸上杉家宅間上杉家・扇谷上杉家に分かれ、このうち山内家と犬懸家が力を持っていたが、上杉禅秀の乱で犬懸家が没落した後は山内家が関東管領職を独占し、太田氏の主君扇谷家は山内家を支える分家的な存在であった。

父・資清が扇谷上杉持朝を補佐していた時代に、鎌倉公方足利持氏と関東管領・山内上杉憲実の対立から永享の乱へと発展し、持氏は室町幕府軍に敗れて鎌倉公方は中絶する。後に幕府によって持氏の子・足利成氏が鎌倉公方に、憲実の長男・山内上杉憲忠が関東管領に任じられると、憲忠の義父である持朝の要望により太田資清が、山内家家宰・長尾景仲と共に、関東管領である憲忠を補佐した。長尾景仲は太田資清の義父で、道灌にとっては母方の祖父にあたる。康正元年(1455年)頃には品川湊近くに太田家は居館を構えたという。同年12月、正五位下に昇叙し、備中守となった。

ところが享徳3年(1454年)、憲忠が足利成氏に暗殺され、上杉一門は報復に立ち上がって武蔵高安寺東京都府中市)にいた成氏を攻めたものの、翌享徳4年(1455年)に分倍河原の戦いで返り討ちに遭い、当時の扇谷家当主・上杉顕房(持朝の子)が討死した。室町幕府は成氏討伐を決め、駿河守護今川範忠率いる幕府軍が鎌倉に攻め寄せる。敗れた成氏は下総古河城に拠って抵抗する(古河公方)。成氏は上杉氏に反感を抱く関東諸将の支持を集めたため、関東地方はほぼ利根川[注 1]を境界線として、古河公方陣営の東側と関東管領陣営の西側に分断された(享徳の乱)。

康正2年(1456年)、父・道真(法名)から家督を譲られた。以後、道灌は上杉政真(顕房の子)・定正(顕房の弟)の扇谷家2代にわたって補佐して、結果的に28年にも及ぶ享徳の乱を戦うことになった。

古河公方側と戦うために早急に防御拠点を築かねばならず、顕房死後に扇谷家当主に復帰した持朝の命で、康正2年(1456年)から長禄元年(1457年)にかけて太田道真・道灌父子は武蔵国入間郡河越城埼玉県川越市)、埼玉郡岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)を築いた(岩槻城は太田道灌によって築城されたとされていたが、近年に道灌と対立した古河公方成氏方の忍城主・成田正等によって築城されたとする資料が見つかるに及んで、現在は後者の学説の方が有力となっている[3])。
江戸城築城江戸城(現在は皇居)外観

更に古河公方側の有力武将である房総千葉氏を抑えるため、両勢力の境界である当時の利根川下流域に城を築く必要があった。道灌は、元来は江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城した(桜田郷の台地)。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』では「道灌日記」という記録からの引用として、道灌が霊夢の告げによって江戸の地に城を築いたとある[4]。また、『関八州古戦録』には品川沖を航行していた道灌の舟に九城(このしろ)という魚が踊り入り、これを吉兆と喜び江戸に城を築くことを思い立ったという話になっている。これらの霊異談は弱体化していた江戸氏を婉曲に退去させるための口実という説がある。江戸城が完成して品川(御殿山)から居館を遷したのは、長禄元年4月8日(1457年5月1日)であったと言い伝えられている。

江戸城の守護として日枝神社をはじめ、築土神社平河天満宮など今に残る多くの神社を江戸城周辺に勧請、造営した。後に徳川将軍家が拡張した江戸城を転用した皇居には現在も「道灌濠」の名が残る[5]。江戸城城主となった道灌は、ここで兵士の鍛錬に勤しみ、城内に弓場を設けて士卒に日々稽古をさせて、怠ける者からは罰金を取りそれを兵たちへの代に充てたという。

諸書を求めて兵学を学び、ことに『易経』に通じて当時の軍配者(軍師)の必須の教養であった易学を修め、また武経七書にも通じていた。『太田家譜』によると室町幕府管領細川勝元に兵書を贈ったとされる。道灌の兵法は「足軽軍法」と呼ばれた。これは、それまでの騎馬武者による一騎討ちを排して、当時登場し始めていた足軽を活用した新時代の集団戦術と論じられることが多いが、実のところ『太田家記』に名称だけが書かれているだけで実態は不明である。

飛鳥井雅親万里集九などと交流して歌道にも精通し、様々な和歌が残されている。


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