太田近江大掾藤原正次
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太田近江大掾藤原正次(おおたおうみだいじょうふじわらのまさつぐ)は、江戸時代に幕府御用を務めた鋳物師の名跡。出身は近江国栗太郡辻村(現・滋賀県栗東市辻)。代々「太田六右衛門」と称し、江戸深川で梵鐘天水桶などを鋳造した[1]。江戸町民からは「釜屋六右衛門」や「釜六」の俗称で知られ[2]、江戸の長者番付けにも名を連ねた。「太田近江大掾」の称号を受領し、享保2年(1717年)からは将軍家の「御成先御用釜師」を勤めた[3]。代表作に台東区浅草寺梵鐘墨田区回向院の銅造阿弥陀如来坐像がある[4]
来歴
近江から江戸へ出職

太田近江大掾藤原正次は近江国栗太郡辻村(現・滋賀県栗東市辻)出身の鋳物師で始めは代々「太田六右衛門」と称した。近江から江戸にのぼり、町民のために鍋や釜など日用品を鋳造する一方で、寺社の梵鐘や天水桶なども数多く製作した[1]。江戸幕府が文政9年(1826年)から3年に渡り編纂した地誌『御府内備考』には[注 1]、太田六右衛門とそのいとこ・田中七右衛門が寛永17年(1640年)に江戸の芝へ出職したとある[4][6][7]

また、田中七右衛門の4男・田中千梅が[注 2]父から聞いた話を享保17年(1732年)にまとめた「深川金屋之興并芝店之由緒」では[注 3][6]、太田六右衛門は当初、田中七右衛門の店で働いたとされる。寛永17年(1640年)に田中家の三男・知次(のちの田中七右衛門)が25歳で江戸へのぼり、美濃国の店を閉めた次兄と共に芝の田町に店と工場を構えた。店の経営を次兄が、商品の細工を知次が担当し金屋を開業した。知次は「田中七右衛門」を名乗り、10年ほどして諸国で職人をしていた母方のいとこ・安左衛門(のちの太田六右衛門)を芝の金屋に呼び寄せたという[2]
芝の成功と大島移転

安左衛門(のちの太田六右衛門)が働く田中七右衛門の金屋は当初、経営難であった。「深川金屋之興并芝店之由緒」によれば、芝での鋳物は湯が悪く、質が悪いものが増え経営が悪化、炭や古鉄の仕入れにも困ったという。しかし明暦3年(1657年)の大火で鍋釜の需要が増加、古鉄の相場が下る一方で鍋釜の価格は上り、繁盛店に転じたとされる。

しかし翌年、近隣で火事が起こり火元が金屋だと疑われた。事実無根となったが金屋の近隣住民は増す一方で鋳造に向かないと判断、都市化の進む芝から高輪へと移転した[2]。しかし高輪では運搬に必要な船の便が悪かったため、万治2年(1659年)さらに江戸深川の大島村へ再移転したという。

移転理由について幕府編纂の『御府内備考』では、芝の店の土地が増上寺拡張の御用地となったため、万治2年(1659年)に深川上大島町(現・江東区大島)に移転したと記されている[6][7]
独立「太田氏」名乗り

大島村へ先に移転したのは安左衛門(のちの太田六右衛門)だった。「深川金屋之興并芝店之由緒」には万治元年(1658年)高輪移転後、安左衛門は閉店した本所・回向院裏の金屋の道具を買い取り、田中七右衛門の金屋に土や藁、縄、俵などを納めていた五本松(現・猿江付近)の百姓・次良左衛門から屋敷の土地を購入し独立した。安左衛門は姓を「太田」とし、大島で「太田六右衛門」の金屋が開業した。翌年、田中七右衛門も太田六右衛門の金屋の西隣にある土地を買い、高輪から河川に恵まれた大島村へと移転した。

以後、両家は大島村で代々鋳物業を営み、太田六右衛門は「釜屋六右衛門」や「釜六」、田中七右衛門は「釜屋七右衛門」や「釜七」の俗称で町民に広く知られ[2]、両人とも江戸の長者番付けに名を連ねるほど繁盛した[3]

江戸時代に書かれた店の紹介書「江戸買物独案内」には[注 4]、釜屋六右衛門の店として小網町2丁目に「鍋釜問屋」[10]、深川上大嶋町に「釘鉄銅物問屋」の2店が掲載されている[11]
名誉号「大掾」受領

太田六右衛門の鋳造技術は皇族にも認められ「大掾」を受領した。近世の「」は宮家や宮中が職人・芸能人に授けた称号で、「大掾」は最高位の名誉号だった[12]

『御府内備考』では延宝5年(1677年)に京都より近江大掾を授かり、安永7年(1778年)皇族・勧修寺宮から「太田近江大掾」の名を受領されたとある[4][7]。作品の銘にはそれ以前から「太田近江大掾藤原正次」が刻まれており、元禄5年(1692年)鋳造した浅草寺 (台東区)の梵鐘[13]、元禄7年(1694年)鋳造した井口天神社 (滋賀県栗東市)の銅製鳥居[4]、元禄11年(1698年)鋳造した感應寺 (江戸川区)の梵鐘など[14]多くの作品に見られる。

特に、明暦の大火の犠牲者を供養するため、大工・太田近江大掾藤原正次が9人の小工を率いて、宝永2年(1705年)に鋳造したという回向院 (墨田区)の銅造阿弥陀如来座像は[4]、その姿形、技法とも優れた代表作で、10か所ほどに分けて鋳造したが、つなぎ部分がわからないほど精巧な仕上がりである[15]
将軍家の御用釜師

享保2年(1717年)徳川将軍家が小名木川を通る際、太田六右衛門と田中七右衛門が炊き出し御用を命ぜられ、これ以降、両家は代々将軍家の「御成先御用釜師」を務めた[16]。太田六右衛門の初代の没年や系譜は不明だが[4]、江戸時代の平均寿命(30?40代)や最高齢(80代)を鑑みると[17]、幕府御用となったのが初代である可能性は低い。田中七右衛門の初代は延宝7年(1679年)に近江で隠居し元禄6年(1693年)78歳で没したという[6]

また太田六右衛門は近江の辻村に本宅を構え、膳所藩(ぜぜはん)の御用も受けていた。太田六右衛門が膳所藩の奉行所に提出した願書「御用向二付願書写」には、田中七右衛門と合同で将軍家の日光社参に必要な鍋釜1440個を注文された際、太田六右衛門が膳所藩からの御用依頼に対し猶予を願い出たことが記されている[18]
11代目まで継承

太田六右衛門の名跡は11代目まで継承され、明治維新後まで続いた[2]

小説家・谷崎潤一郎は著書「幼少時代」の中で、祖父が深川の釜屋掘で釜を製造する釜六という店の総番頭だったと述べている。明治維新時、主人一家は田舎に避難し、谷崎の祖父が店の営業を続けたため主人から徳とされたという。


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