太田誠一
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この項目では、元政治家について説明しています。農芸化学者については「太田誠一 (農芸化学者)」をご覧ください。

日本政治家太田 誠一おおた せいいち

生年月日 (1945-10-30) 1945年10月30日(78歳)
出生地 日本 福岡県福岡市
出身校慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了
前職福岡大学助教授
所属政党(自由民主党→)
自由党→)
新進党→)
自由民主党
称号衆議院永年在職議員
旭日大綬章
経済学博士(慶應義塾大学大学院)
親族祖父・櫻内幸雄
大叔父・櫻内辰郎
伯父・櫻内義雄
従姉甥・福田達夫
義父・亀井光
第47代 農林水産大臣
内閣福田康夫改造内閣
在任期間2008年8月2日 - 2008年9月19日
第22代 総務庁長官
内閣小渕内閣
小渕第1次改造内閣
在任期間1998年7月30日 - 1999年10月5日
衆議院議員
選挙区(旧福岡1区→)
福岡3区
当選回数8回
在任期間1980年6月23日 - 2003年10月10日
2005年9月12日 - 2009年7月21日
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太田 誠一(おおた せいいち、1945年10月30日 - )は、日本政治家経済学者自由民主党所属で衆議院議員(8期)を務め、小渕内閣総務庁長官福田康夫改造内閣農林水産大臣をそれぞれ歴任した。

財務行政に詳しく、大蔵政務次官竹下改造内閣)、衆議院大蔵委員長、自民党財政部会長などを務めたほか、宏池会会長代行、自民党人権問題調査会会長なども歴任した。
来歴・人物
生い立ち

福岡県福岡市出身(広島県生まれ)[1]。父は元博多大丸会長の太田清之助[1]

太田家は、江戸期に遠賀から博多に出て、油屋で財を築いた初代清蔵以来、当主は清蔵を襲名している[1][2]。祖父の4代清蔵(元第一徴兵保険社長)が実業家として大成した[2]福岡教育大学附属福岡中学校を卒業後に上京、伯母の家から慶應義塾高等学校へ進学する。同居していた従姉が福田貴代子であり、貴代子の姉の夫である毎日新聞記者・斎藤明から聞く話に刺激を受けた[3]
数理経済学者

1968年3月に慶應義塾大学経済学部経済学科数理経済学専攻[4])卒業後、1973年3月に慶應義塾大学大学院経済学研究科に進学、福田正夫門下として学び、大学院の二年先輩に宮尾尊弘がいた。1972年の理論計量経済年次大会では最適制御理論を応用した投資行動モデルを発表[5]1973年3月に博士課程を修了する。

1976年4月には福岡大学経済学部助教授(経済原論担当[6])に着任。1977年9月にはアメリカ合衆国ブラウン大学の客員助教授に就任する。福岡教育大付属中のクラスメートだった後藤晃に誘われたブラウン大学のH.ライダー教授による「最適成長論」のセミナーで知り合った佐藤隆三が同僚にいた[7]
政治家として2007年9月25日衆議院により内閣総理大臣に指名された福田康夫(中央)を他の議員らとともに祝福(一番右の人物)2015年11月5日、大綬章の親授式後の記念写真にて(左端)

1979年自由民主党公認で第35回衆議院議員総選挙に出馬したが落選。1980年第36回衆議院議員総選挙で初当選した。1988年には竹下改造内閣大蔵政務次官を務めた。1989年8月に行われた総裁選挙では亀井静香平沼赳夫園田博之と共に石原慎太郎の推薦人になるも石原は48票しか獲得できず、海部俊樹に敗れた[8]。亀井静香によると、太田はこの時に派閥のしがらみを無視して推薦人があと一人足りずに苦労していた石原慎太郎の推薦人となったが、それまで石原慎太郎とは特に親しい関係ではなかったという[9]

1993年7月18日投開票の第40回衆議院議員総選挙後に行われた7月21日の両院議員総会で壇上に総裁宮澤喜一幹事長梶山静六総務会長佐藤孝行政調会長三塚博がいる前で「(選挙がこのような結果になったのは)宮澤総裁はC級戦犯だと思っている。A級戦犯、B級戦犯の方もいる。その方々には責任を取ってもらいたい」と発言し、宮澤は翌22日に辞任を表明した[10] [9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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