元プロ野球選手の「太田龍」とは別人です。
太田 龍
生年1930年8月16日
生地 日本・樺太 豊原町
没年 (2009-05-19) 2009年5月19日(78歳没)
没地 日本
思想マルクス主義→アイヌ解放→エコロジスト→反ユダヤ主義
所属革共同、トロ同、第四インター(委員長)、日本みどりの党、日本みどりの連合、地球維新党
現職『週刊日本新聞』編輯主幹
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太田 龍(太田 竜、おおた りゅう、1930年〈昭和5年〉8月16日 - 2009年〈平成21年〉5月19日)は、日本の革命思想家である。元日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。本名、栗原 登一(くりはら とういち)。
樺太豊原町出身。東京理科大学中退。1970年はじめはアイヌモシリ独立運動、終わりごろはエコロジスト
運動、自然食(マクロビオティック)や特に自然食運動の始祖桜沢如一の革命理論を取り込んでいき、家畜制度全廃、反米、フリーメイソンやイルミナティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配となる。その後、人類は爬虫類人によって支配されているという説を取り込んでいる。若い頃からの座右の書は法華経と古事記。この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
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医師・栗原達三郎とトミ(旧姓:小林)の四男として誕生。父方は千葉県印旛郡物井村(現:四街道市物井)に代々続いた漢方医の家系。
1942年、豊原第一尋常小学校入学。このころ、次兄(栗原東洋)がマルクス主義者として逮捕され、北海道帝国大学予科を退学になる。
1944年3月、父母の郷里である千葉県に引き揚げる。旧制千葉中学校(千葉県立千葉高等学校)2年生の頃までには、次兄の蔵書に読み耽った影響で熱心な共産主義者となっていた。戦争末期には級友たちに日本の敗戦を予告したために売国奴と見なされ、運動部の部室でリンチを受けたこともある[1]。
1945年10月に日本共産青年同盟(のちの日本民主青年同盟)に加盟、1947年、日本共産党党員となったが1953年に離党、黒田寛一らとともに1957年に革命的共産主義者同盟(革共同)を結成する。1958年に第四インターナショナル第五回大会に出席し、帰国するなり革共同の全面的な日本社会党への「加入戦術」の採用を提起する。しかしこの提起は拒否され、太田は自身の影響下にあった東京学芸大学と日比谷高校のグループを引き連れて分裂した(いわゆる「革共同第一次分裂」)。
革共同から分裂した太田は、1958年8月に「トロツキスト同志会」(トロ同)を結成。トロ同は全組織を挙げて、日本社会党の地区組織に「加入戦術」を行う。トロ同は、1958年12月に「国際主義共産党」(ICP) に発展解消した。社会党への「加入戦術」による穏健な活動を続けていたICPだが、1960年6月の安保闘争の大高揚に直面した太田は6月22日に突如、独断で「大衆は武装蜂起せよ」と呼びかけるビラをたった一人で御茶ノ水駅頭にて配布する。この独断専行によって、太田はICPから「非組織的な挑発者」として除名される。