太田幸司
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大田卓司」とは別人です。

太田 幸司2014年4月3日 わかさスタジアム京都にて
基本情報
国籍 日本
出身地青森県三沢市
生年月日 (1952-01-23) 1952年1月23日(72歳)
身長
体重176 cm
76 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1969年 ドラフト1位
初出場1970年4月19日
最終出場1982年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


青森県立三沢高等学校

近鉄バファローズ (1970 - 1982)

読売ジャイアンツ (1983)

阪神タイガース (1984)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

太田 幸司(おおた こうじ、1952年1月23日 - )は、青森県三沢市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者、スポーツキャスター、日本女子プロ野球機構スーパーバイザー
経歴

アメリカ軍人男性と青森市日本人女性との間に生まれたといわれる[1]。3歳のとき三沢基地軍属をしていた日本人男性と白系ロシア人女性の夫妻の養子となり[1]一人っ子として育つ。養母に関しては、ラジオ番組の中でスラヴ人ではなくフランス人の子孫だと明かしている。
高校時代

三沢高校在学中に、野球部のエースとして1968年夏1969年春阪神甲子園球場で行われた選抜高等学校野球大会・全国高等学校野球選手権大会に3大会連続出場を果たした。

特に1969年夏は、東北勢としては戦後初の決勝進出を果たした。その決勝戦、松山商業戦に2日間の熱投が行われた。1日目は、三沢は満塁サヨナラの好機を2回も逃すなどもあり、延長18回(試合時間:4時間16分)を戦い抜いて0-0の引き分けとなった。太田はこの試合を1人で投げ抜いた(投球数:262球。松山商のエース・井上明(のち朝日新聞記者。高校野球担当)も一人で232球を投げ抜いている)。再試合となった2日目の試合も全イニングを投げたが、2-4で敗戦。決勝戦計27イニング、準々決勝からの連続45イニングを1人で投げ抜いた熱投も実らず、準優勝に終わった(第51回全国高等学校野球選手権大会決勝の項も参照)。8月末からは全日本高校選抜の一員としてブラジル・ペルー・アメリカ遠征に参加する。

混血ゆえ、薄茶色の髪に色白で端正な顔立ちの美少年で、選抜大会出場後から女性ファンが周囲に姿を見せるようになった[2]。さらにこの決勝戦の熱投も加わり、「コーちゃん」という愛称で女子高生などに絶大な人気を呼んだ。それ以前には特定の高校野球選手に社会現象に近いような形で女性ファンが集まったことはなく、「甲子園球児のアイドル」の元祖と呼べる存在である[2][3]
プロ時代

同年のドラフトにて近鉄バファローズから1位指名される。11月21日から入団交渉を行い、12月8日、合意に達し三沢市の「第一ホテル」にて入団を正式に表明[4]。22日、球団は大阪市上六の近鉄本社八階大会議室にて午後2時から太田の入団を正式に発表[5]。会見にはオーナーの佐伯勇と監督の三原脩が立会い、報道陣も新聞、雑誌、テレビ、ラジオなど約200名、女学生を中心としたファンも朝から近鉄本社前に集結し、本社もあらかじめ混乱を予測し玄関先にガードマンを配置するなど、大規模なものとなった[6]

人気はプロ入り後も全く衰えることはなかった。開幕一軍メンバーに抜擢されたがこの決定に「二軍でみっちり体を作ってから一軍にあがるつもりだったのに…」と当惑。以降もこの状況が続き悩んでいたという。開幕間もない4月19日、藤井寺球場での対ロッテオリオンズ戦で、1-1の8回に公式戦初登板[7]。この登板は試合中の7回にコーチから伝えられたが、これは監督の三原脩が「前日に伝えて眠れなくなったりでもしたら困る」と考えてのことだった[7]。8回は三者凡退に抑え、その裏味方が1点を勝ち越したものの、9回に乱れて再び同点に[7]。ところが、9回裏に自らの代打に立った木村重視がサヨナラ本塁打を放ち、ラッキーな初勝利を手にした[7]

プロ入り初年の1970年から1972年までは、ファン投票1位を獲得してオールスターゲームへの出場を果たす。特筆すべきは初年の1970年のオールスターゲームでの3試合連続リリーフ登板である。一軍でほとんど実績がない(前半戦を終えて上記の1勝のみ)にもかかわらず、球場やテレビで観戦する太田のファンに配慮して出さざるを得ず、全パ監督の西本幸雄(当時阪急ブレーブス)は「いかに被害を少なくするか」苦心したという。1試合目こそワンアウトしか取れずに連打を浴びて降板したものの、2試合目は1イニングを三者凡退で抑え、3試合目はワンポイントリリーフとして阪神タイガース田淵幸一を抑えた。この3試合を期にプロとしての実力も徐々につき始める。

3年目の1972年のオールスター第3戦で、読売ジャイアンツ長嶋茂雄王貞治を打ち取ったことが「プロ野球人生のターニングポイントだった」と後に語っている[2]1973年には6勝を挙げる。この年のオールスターゲームでは入団以来のファン投票1位が途切れたが、全パ監督の西本幸雄が監督推薦で選出。太田は「やっと、一人前のプロ野球選手になれた」と喜んだ[2]1974年からは西本が近鉄の監督に就任。主力・若手を区別なく鍛える西本に、人気先行に悩んでいた太田はほっとしたという。そのシーズンに念願の二桁勝利(10勝)を挙げる。1975年には自己最多となる12勝を挙げた。1977年にも10勝を挙げ、防御率は10位で初の投手十傑入りを果たした。1979年には7勝を挙げ、防御率は5位で球団初のリーグ優勝に貢献(ただし日本シリーズでの登板はなかった)。翌1980年のリーグ優勝には数字の上で貢献はできなかったが、日本シリーズでの登板を経験した。

その後は十分な成績を挙げられず、1983年3月25日石渡茂と共に読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍。背番号は「33」。さらに同年11月10日に阪神タイガースへ鈴木弘規との交換トレードで移籍したが、両球団での一軍登板は無く、1984年10月17日に阪神を退団し、そのまま現役を引退した。
現役引退後

1985年から、毎日放送野球解説者やスポーツキャスターとして活躍。


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