太田宏介
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

太田康介」あるいは「太田浩介」とは別人です。

太田 宏介

名前
愛称こうちゃん[1][2]、コースケ[3]
カタカナオオタ コウスケ
ラテン文字OTA Kosuke
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1987-07-23) 1987年7月23日(36歳)
出身地東京都町田市
身長179cm
体重78kg
選手情報
ポジションDFLSB[4]CB[4]
MFLWB[5]
利き足左足[6][7]
ユース
1994-1999つくし野SSS(つくし野天使幼稚園 / 町田市立小川小学校)
2000-2002FC町田(町田市立つくし野中学校
2003-2005麻布大学附属渕野辺高等学校
クラブ1
年クラブ出場(得点)
2006-2008 横浜FC 49 (0)
2009-2011 清水エスパルス 85 (2)
2012-2015 FC東京 112 (7)
2016-2017 SBVフィテッセ 26 (0)
2017-2019 FC東京 61 (2)
2019-2020 名古屋グランパス 21 (0)
2020-2022 パース・グローリーFC 30 (0)
2022-2023 FC町田ゼルビア 18 (0)
通算402 (9)
代表歴2
2007 日本 U-20
2010-2015 日本7 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年12月4日現在。
2. 2015年8月5日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

太田 宏介(おおた こうすけ、1987年7月23日 - )は、東京都町田市出身[8][9]の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー(左サイドバック、センターバック)、ミッドフィールダー(左ウイングバック)。元日本代表
来歴
プロ入り前

5歳の時にサッカーを始め[7][9]、同市出身のサッカー選手秋元陽太とは幼馴染[10]。幼少時から母と兄との3人暮らしで[11] 中学3年生時に両親の離婚が成立[9]。兄と共に将来の母孝行を誓った[9]

2003年、同郷の小林悠と共に麻布大学附属渕野辺高等学校に進学[12]。2004年、国体選抜に選出され、左サイドバック(SB)を初体験[13]。太田もこれを契機に[12]クロスを武器とする左ウイングバック(WB)としてプレーするようになり[4][14]、当時日本代表で同ポジションを務めた三都主アレサンドロを目標に挙げていた[15]。同期生の小林や小野寺達也、お笑いコンビ「ぺこぱ」のシュウペイと共に2年生時に第83回全国高校選手権大会、3年生時には同84回大会と2年連続で選手権に出場した。

2005年、ベガルタ仙台の練習に参加。日本代表で左SBを務めた仙台の都並敏史監督は、太田の素質を認めフロントへ推薦したものの、左山晋平の獲得が決まっていたため加入は見送られた[16]。J1クラブからのオファーを得られず大学進学を考えていた中で[17]、憧れのFW三浦知良が所属し、自身も練習生としてトレーニングに参加していた[15]横浜FCからのオファーを受け、プロ入りを決めた。横浜FC加入の経緯については、2012年5月26日に行われたJ1第13節、FC東京対浦和レッズ戦のTV中継時に、ハーフタイムに放送されたクラブ応援コーナーにて「横浜FCに入った時はカズ選手がいたから?」との質問を受け「それWikipediaで載ってましたけど、もちろんカズさん大好きな選手ですけど、それで判断したわけではないです」と述べている。また太田自身がこのWikipediaのページを読んでいるのかを尋ねられ、実際に読んだと答えた上で「両親は太田の大学進学を希望していたが[15]」との記述に対し「『両親は大学進学を希望していたが』みたいに書いてあったんですが、別にそんなことはないですよね。『あれ?どこからの情報だ?』と思って」と答えている。
横浜FC

2005年12月、翌2006年からの横浜FC入団が発表された[18]。この時はMFの選手とリリースされていたが[18]JリーグではDF登録となり、新たな環境と不慣れなポジションへの適応に苦しんだ[19]。2006年6月、J2第20節山形戦でプロデビュー[20]

2007年序盤には、高木琢也監督の下でCBのレギュラーに抜擢される[6][4]。ここでの活躍から[21]同年、カナダで開催されたFIFA U-20ワールドカップに臨むU-20日本代表に選出された。同大会ではナイジェリア戦に左SBとして先発フル出場し、グループリーグ首位通過に貢献した[22][23]

CB起用が多い状況には葛藤を抱えていたが[24]2008年には都並新監督から背番号を自身も現役時代に長く着用した「6」に変えるよう指名されるとともに[25]、熱心な指導の下で[14] ポジションを左SBに絞って練習に励んだ[26]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:127 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef