太湖汽船
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太湖汽船(たいこきせん)は、かつて滋賀県琵琶湖航路を運営していた海運会社である。歴史上、2つの会社が存在している。

1882年明治15年)5月1日に、藤田組と江州丸会社・三汀社が合同して設立した会社。本項で記述。

1886年(明治19年)12月23日に、紺屋関汽船と山田汽船が合同して設立した湖南汽船。1929年昭和4年)4月11日、社名を太湖汽船に変更した。→琵琶湖汽船

概要

1882年(明治15年)、琵琶湖上で長距離航路を運営する多数の会社が合同し設立された。その後いくつかの会社を吸収し、琵琶湖最大の船舶会社となった。

同年に金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)から長浜駅までの鉄道が開通したことを受け、日本初鉄道連絡船大津駅(現在のびわ湖浜大津駅)までの区間に就航した。この航路は翌年の1883年(明治16年)に長浜駅からの鉄道が東海道本線に接続されてから1889年(明治22年)に湖東線(関ケ原駅 - 米原駅 - 馬場駅(現在の膳所駅))が開業するまでの間、東海道の交通も担っていた。

しかし、東海道本線の全通をはじめとする陸運の発達などの影響で斜陽となったため、1927年(昭和2年)、大津電車軌道(現在の京阪石山坂本線)などと合併したが、1929年(昭和4年)に京阪電気鉄道(京阪)へ合併されることとなった。船舶部門は京阪から湖南汽船へ現物出資されるとともに、同社は太湖汽船(2代目、現在の琵琶湖汽船)に改名した。

※詳細は、#歴史の節を参照。
歴史
前史

江戸時代以前の琵琶湖の水運は和船により運航されていたが、1869年(明治2年)3月、琵琶湖上ではじめての汽船(蒸気船)である「一番丸」が、大津 - 海津間に就航した。

同船は、大聖寺藩士の石川嶂の建議により計画されたものだが、当時は同藩が大津付近を統治しており、物資や軍事輸送などに湖上輸送を活用していたことや、幕末の混乱にあたって大坂への西廻り航路の安定性への不安からの要請であったと考えられる[1]。この計画に対し、大津側では1867年慶応3年)、同様に蒸気船の就航を考えていた大津百艘船[2]仲間の一庭啓二(船屋太郎兵衛)[3][4]が呼応し、ともに長崎造船技術などを学んだ後、同地で雇った造船工とともに大津で船の建造をすすめた。なお、大聖寺藩は建造資金を出資するとともに大津汽船局(大聖寺藩用場)を設置したほか、一番丸の船長には一庭が就任している。

一番丸の成功は従来からの和船運航者や宿泊業者などから妨害を受けたものの、同藩から政府に出願され、のちに一庭および大津における大聖寺藩産品の販売に関わっていた堀江(船屋)八郎兵衛[5]によって建造される「二番丸」[6]が許可されると、県令松田道之が蒸気船の建造を奨励した[7]こともあって他藩もこれに倣うようになり、彦根藩の補助による大津 - 米原航路や、郡山藩[8]による大津 - 海津航路、そのほか大津 - 彦根松原、大津 - 長浜 - 塩津航路などが続々と就航したが、その多くが大津と湖北の海津・塩津・飯浦を結ぶ航路を設けていた[9]。また、船舶数の増加を支えたのは大津造船所のほか各村の船大工の高い造船技術も一役買っていたと考えられる[9]

しかし多くの船が就航しスピードなどの競争が活発になるにつれ、ボイラー破損[10]過積載による遭難[11]など海難事故が続発したが、これに対し県と各船主による「汽船取締会所」を設置したほか、兵庫造船所の外国人技師1名を雇い検査態勢を敷いた。これにより運航時刻[12]や定員の厳守および切符の販売などに規制が設けられたほか、保安基準についても数度にわたって規定の改定が行われ、灯火および汽笛の取り扱いのほか、甲板の長さによって航路を規制するなどの安全対策が行われたが、輸送量の増大のため対処は容易ではなかった。過当競争を防ぐための統制はなお困難であったが、県当局の裁定により、東浦航路(大津 - 長浜)に就航する5隻による三汀社および西浦航路(大津 - 塩津)に就航する7隻による江州丸会社に統合し、他業者の参入を事実上制限した。これにより湖上輸送は南湖のローカル航路を統合した航安組[13]を含む3社に統合されたが、1878年(明治11年)になると他船の参入や江州丸会社の内紛のほか、両航路が互いのテリトリーに延航するなど、またも統制がとれない状態となった。
太湖汽船の成立と終焉

1879年(明治12年)、工部省鉄道局[14]が鉄道開通に先立ち「長濱丸」を就航させたほか、長浜港の浚渫など整備を行ったこともあって、各社の競争はなお活発となった。しかし、鉄道連絡輸送を安定的に行いたいと考える鉄道局のほか、競争の激化を危惧する滋賀県当局の意向もあって各社が合同する機運がおこり、関係者が依頼した藤田伝三郎率いる藤田組と江州丸会社・三汀社が合同し同年5月、政府と民間の出資により太湖汽船(初代)が設立された。なお、初代頭取には藤田が就任した。

この新会社は湖上交通の9割を占めた[15]ほか、鉄道局から連絡船運航の許可を得るとともに運航回数などについての要請を受けている。


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