太政官
組織の概要
設立年月日1868年(慶応4年)6月11日
解散年月日1885年(明治18年)12月22日
継承後組織.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
内閣
管轄 日本国政府
監督大臣
太政大臣(三条実美)
下位組織
民部省
大蔵省
兵部省
刑部省
宮内省
外務省
太政官(だじょうかん)とは、明治維新が開始された慶応4年/明治元年(1868年)、政体書によって設置された最高行政機関である[1]。立法・行政・司法の機能を備えていた。職名は律令制の名称がそのまま使われていたが、その組織に関しては幾度か改革がされた。明治18年(1885年)に内閣制度の発足に伴い、廃止された。歌川広重 (3代目)による太政官所、駅逓寮、元老院議事堂。太政官の印 1868年6月11日(慶応4年/明治元年旧暦閏4月21日)に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づいて置かれた。当初は、議政官以下7官の総称だった。 1869年(明治2年)の官制改革で、民部省以下6省を管轄し、左右両大臣が置かれた。 1871年、長官として太政大臣(だじょうだいじん)が置かれた。 1885年(明治18年)、内閣制度の発足に伴い廃止された。 慶応4年から明治18年に至る期間は、官制の改廃が著しく、常に一定しない。官制は大要、下記のように改編された。 慶応3年旧12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が出されると同時に戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)が始まり、依然として強力な政治体制を維持していた江戸幕府に代わる政治体制の確立が急務となった。そこで、幕府・征夷大将軍・摂政・関白に代わるものとして、総裁(有栖川宮熾仁親王)、議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)の三職が任命された。 『太政官日誌』は慶応4年2月14日(1868年3月7日)から始まっている[2]。.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}二月十四日 午の半󠄁刻より申の刻までに 大坂西本願寺に於󠄁て 醍醐大納󠄁言殿 東久世前少將殿 宇和嶋少將殿 各國公󠄁使󠄁と應接の始末 左の如し但 外國事務係 及󠄁び 諸󠄀藩家老列座 東久世殿發話 我日本 政體復古帝?自ら政權を握し 外國の交󠄁際も 一切朝廷󠄁にて曳請󠄁 裁判󠄁致可 … ? 『太政官日誌』第一 また当時の法規は『太政類典
沿革
官制
三職
政体書詳細は「政体書」を参照.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに政体書
慶応4年旧閏4月21日(1868年6月11日)、副島種臣・福岡孝弟の起草による、基本法ともいえる政体書(慶応4年太政官達第331号)が、太政官の名で布告された。政体書は、新政府の政体を「五箇条の御誓文」に基づくものとし、権力分立・官吏公選・府藩県三治制などについて規定している。この政体書に基づいて旧閏4月27日(6月17日)、日本の新しい体制が発足した。国家権力全体を支配する組織を太政官と称して、同時に内部では権力分立を行って専制権力の発生を阻止しながら、諸大名や国民を強力に支配していく体制を組織しようとした。政體(慶應四年太政官達󠄁第331號)(略)一 天下ノ權力總テコレヲ太政官ニ歸ス則チ政令二途󠄁ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ權力ヲ分󠄁ツテ立法司法行政ノ三權トス則偏󠄁重ノ患無カラシムルナリ一 立法官ハ行政官ヲ兼󠄁ヌルヲ得ス行政官ハ立法官ヲ兼󠄁ヌルヲ得ス但シ臨時都󠄁府巡󠄁察ト外國應接トノ如キ猶󠄁立法官得管之(略)
三職のうち総裁が廃止されて(当時熾仁親王は江戸に滞在中)、副総裁2人が輔相(ほしょう)と称して事実上の政府首班に就いた。立法権を司る議政官は、議定・参与からなる上局と諸藩の代表(貢士)からなる下局から構成された。行政権を司るのは、行政・神祇・会計・軍務・外国の各官(官庁)からなる五官であり、特に行政官は輔相を長として他の4官を監督する役割も担った。三権を担う官の内司法権を扱う刑法官は、実際には4官同様、行政官の監督を受けていたため、司法権の独立は形骸化した。さらに、輔相は議定の資格で議政官(上局)の構成メンバーでもあったため、権力分立は形ばかりとなっていた。
戊辰戦争終了後の明治2年(1869年)に入ると、版籍奉還が実施されて、諸藩は政府の地方機関として位置付けられた。そこで、会計官から地方行政を扱う民部官が独立した。続いて政体書に基づく「官吏公選」が行われて守旧派の公家や諸侯は事実上排除される形となった。また、監察機関として弾正台が設置された。 こうした政治情勢の変動に対応して、明治2年7月8日(1869年8月15日)に、新しい太政官制が導入された。これは、アメリカの影響を受けた政体書体制を廃止して、「祭政一致」を原則とした復古的な官制であった。まず神祇官が復活して太政官よりも上位に置かれ、太政官の下には民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省が設置されるという二官六省制が採られ、侍詔院
明治の太政官制
また、三権がいずれも太政官の下に置かれた事が特徴である。太政官には左右両大臣と3名の大納言、3名の参議からなる「三職」が置かれて指揮をとった。三職は明治天皇に対して「三職盟約」・「約束四条」と呼ばれる誓約を行って天皇への忠誠と公正な政務を誓った。また、これに伴い「官位相当表」が改正され、左右両大臣は従一位または正二位、大納言は従二位、参議・卿は正三位、大輔は従三位、少輔は正四位とされ、また八位と初位の間に正・従の九位の位階が追加された。また、任命手続きにおいては四位以上を「勅授」・六位以上を「奏授」・七位以下を「判授」と呼んだがすぐに改められて、位階の授与については従来通り、役職の任命については勅任・奏任・判任と改称されることになった。