太政大臣
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出典検索?: "太政大臣" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2014年3月)

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本律令官制明治時代太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名で、律令下においては具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。明治の太政官では天皇の役割を代行する政府首脳としての官職であった。
概要

太政大臣は律令に基づいて置かれたが、中国官制には相当するものがなく、日本独自の官職である。日本史上、太政大臣は大友皇子から三条実美までの95人である。その態様は一様ではないが、おおまかに次の4種に分類することができる。
大宝令以前の太政大臣

大宝令及び養老令に基づく太政大臣

武家官位としての太政大臣

明治時代の太政官制に基づく太政大臣

大宝令以前の太政大臣

日本最初の太政大臣とされているのは、天智天皇が天智天皇10年(671年)1月に任命した大友皇子である。近江令に基づくものとも、そうではない新設の官とも[1]、説かれる。職務権限などの詳細は不明である。大友皇子が天智天皇の死後その後継者に擁立されたことから、たとえば推古天皇の治世における聖徳太子のように、最有力の皇位継承者であると同時に天皇の共同統治者・政務代行者として位置づけられたものと考えられる。いわば皇太子摂政を兼ねた地位である。

これに続くのは、持統天皇の任命にかかる高市皇子である。飛鳥浄御原令に基づくものと推測されるが、これも具体的な内容はわからない。高市皇子の任命は持統天皇4年(690年)7月であるが、この直前、同年4月に皇太子草壁皇子が死亡していること、高市皇子が持統天皇10年7月に死亡すると、その直後の翌年2月に草壁皇子の子軽皇子が皇太子に立てられていることから、高市皇子の地位も皇太子に準じるものであって、太政大臣という官職がそのことを表現しているものと考えられる。
大宝令・養老令に基づく太政大臣

通常「太政大臣」といえば、この大宝令・養老令の下での太政大臣を指す。太政大臣は太政官における最高の官職である。訓読みとしては「おほいまつりごとのおほまへつぎみ」(『令義解』)「おほまつりごとのおほまつぎみ」(『和名類聚抄』)「おほきおほいまうちぎみ」(『古今和歌集』)などと読む。定員1名。官位相当は正一位従一位

養老令「職員令」では、太政大臣の職務は次のように規定されている。師範一人、儀形四海、経邦論道、燮理陰陽、无其人則闕

「一人に師範として、四海に儀形たり」とは、天皇の師範であり天下の手本となる者であることを意味し、の令の三師太師太傅太保)の規定の丸写しである。「邦を経め(おさめ)道を論じ、陰陽を燮理(しょうり)す」とは、国家を治め道理を論じ自然の運行を調和させることをいい、唐の令の三公(司徒、司空、太尉)の規定の丸写しである。「その人なければすなわち闕けよ(欠けよ)」というのもやはり丸写しである(これにちなんで太政大臣の異名を「則闕の官」という)。日本における太政大臣は、中国の三師と三公を一身に兼ねるものと言える。『令義解』でも「尋常の職にあらず」と説明されており、ふさわしい人物がなければ空席とされることになっていた。
先駆者たち

大宝令が施行されても、しばらく太政大臣は任命されることがなかった。これはもちろん「尋常の職」ではなく「則闕の官」であることにもよるが、大友高市のふたりの太政大臣の前例も影響を与えている。皇太子に匹敵するほどの高い権威を有する人物でなければ任命できない一方、うかつに任命すれば皇太子の権威を脅かす存在になりかねないからである。このため、太政大臣の任命が必要な場合でも、あえてこれを避け、太政官の長官という側面だけを抽出した令外官である知太政官事を設置することでしのぐことが続いた。ただ、藤原不比等をはじめ、死後に太政大臣を追贈された例はいくつか見られる。

結局、太政大臣が実際に任命されるのは、養老令の施行後、天平宝字4年(760年)1月の藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)の任命まで時期がくだることになる。ただし、この任命は、天平宝字2年(758年)8月から同8年(764年)9月までの、太政大臣を「太師」と改称した時期に当たり、押勝が就任したのはこの太師である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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