「太平村」はこの項目へ転送されています。「大平村」については「大平村 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 東北地方 > 秋田県 > 秋田市 > 太平 (秋田市)
太平(たいへい)は秋田県秋田市にある地区(広域地名)。人口は2,557人(2011年10月1日現在、住民基本台帳による ⇒[1])。
1954年(昭和29年)10月1日に秋田市へ編入された旧南秋田郡太平村の区域をそのまま継承している。太平黒沢、太平寺庭、太平中関、太平八田、太平目長崎、太平山谷の6大字からなる。
本項では、旧太平村及びそれ以前に周辺地域の総称として呼ばれた太平村・太平郷などについても記述する。 秋田市の東部に位置し、太平山の南西側山麓・山腹を占める。平成の大合併で河辺郡河辺町を編入するまでは、太平黒沢が秋田市の最東端であった(現在の最東端は河辺岩見
地理
中央部を太平川
が東西に流れ、流路に沿って秋田県道28号秋田岩見船岡線やその旧道が走っている。西部で太平川に合流する八田川沿いには秋田県道232号太平山八田線があり、最奥部で太平山登山道の金山滝ルートへ接続している(以前は山頂まで県道指定されていた)。北部は太平山の尾根を境として仁別に隣接し、前岳・中岳・剣岳・鶴ヶ岳などの山頂が連なっている。北西は山内、西は柳田、南は下北手、南東・東は河辺に隣接する。 たいへいむら
河川
太平川
八田川
矢櫃沢
小黒沢川
小黒沢
皿見内沢
無知志沢
深木沢
歴史
太平村
廃止日1954年10月1日
廃止理由編入合併
南秋田郡太平村・外旭川村・飯島村・下新城村・上新城村、河辺郡浜田村・豊岩村・四ツ小屋村・上北手村・下北手村・仁井田村、由利郡下浜村 → 秋田市
現在の自治体秋田市
廃止時点のデータ
国 日本
地方東北地方
都道府県秋田県
郡南秋田郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
面積79 km2.
総人口5,871人
(廃止時)
隣接自治体秋田市、
河辺郡:下北手村、豊島村、岩見三内村
太平村役場
所在地秋田県南秋田郡太平村目長崎字上長崎225[1]
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度43分50.2秒 東経140度11分56.7秒 / 北緯39.730611度 東経140.199083度 / 39.730611; 140.199083 (太平村)
ウィキプロジェクト
テンプレートを表示
出羽国秋田郡覇別村(はわけ)として成立したとされる。太平川と八田川の流域には古くから集落が拓けており、古代の埋蔵文化財が度々発掘されている[2]。中世には大江氏(永井氏)領であった[2]。「太平」の元の読みは「おいだら」であるが、由来は「大江平」(おおえだいら)であるとする説(久保田能落穂)、「狼平」(おおいぬだいら)であるとする説(地名辞書)、巨人「オイダラボッチ」であるとする説(秋田の今と昔)などがある[2]。アイヌ語で「山の麓の動揺する地」の意だとする説もある[3]。
戦国時代の天正19年正月17日(1591年2月10日)「豊臣秀吉朱印蔵入帳写」に「太平村 3,761石余」とあるのが初見史料である[2]。その後の史料でも「太平村」「太平郷」といった表記がされ、岩見村から広面村まで14ヶ村に亘る広域地名だった[2]。
また、「豊臣秀吉朱印蔵入帳写」には同時に「松ケ崎村・目太平村 246石余」との記述もあり、松ヶ崎村と併記される「太平村」「目太平村」(めおいだらむら)も戦国期の史料に引き続き登場した[4]。資料によっては「目」を「同」と写しているものもあり、また「斑目」(まだらめ)の名残という可能性も考えられている[4]。
江戸時代には地域内の諸村は独立扱いされたため、公式に「太平村」と称されることは無かったが、総称として「太平」(たいへい・おいだら)が使われていたことは、菅江真澄の「真澄遊覧記」などの記述から確実視されている[2]。
1889年(明治22年)4月1日の町村制施行により太平村となったが、これも当初「おいだらむら」と呼ばれていたものが次第に「たいへいむら」の読みで一般化していった[2]。
沿革
1873年(明治6年)3月 - 大区小区制の改正に伴い、秋田郡八田村・目長崎村・寺中堀内村・寺庭村・井関沢村・黒沢村・山谷村は秋田県第1大区6小区に属した[5]。
1874年(明治7年)
7月7日 - 東嶽学校(現太平小学校)が開校する[6]。
8月20日 - 目長崎村に目長崎学校が開校する[7]。
11月10日 - 八田村に八田学校が開校する[7]。
1876年(明治9年) - 井関沢村・寺中堀内村が合併し中関村となる[8]。
1878年(明治11年)5月20日 - 黒沢村に東嶺学校(後の山谷小学校)が開校する[9]。
1884年(明治17年)頃 - 郡区町村編制法下、南秋田郡目長崎村・八田村・中関村・寺庭村・黒沢村・山谷村が連合。戸長役場は目長崎村に設置される[2]。
1887年(明治20年) - 連合6ヶ村の戸数491、人口3,095(地方行政区画便覧)[2]。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、連合6ヶ村が合併し南秋田郡太平村が発足。旧6村は大字となる。初め太平(おいだら)村、次第に太平(たいへい)村の呼称が一般化。村役場は目長崎に設置[2]。
八田村は目長崎村との2村合併を主張し、寺庭村・黒沢村・山谷村は中関村を加えた4村合併を主張した[10]。