太平洋岸北西部
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ノースウエスト準州」あるいは「北西部領土 (アメリカ合衆国)」とは異なります。

太平洋岸北西部(たいへいようがんほくせいぶ、: Pacific Northwest, PNW, PacNW)は、北アメリカ北西部のアメリカ合衆国アラスカ州からカナダブリティッシュコロンビア州を経てまたアメリカ合衆国の太平洋岸北西部に至る地域である。太平洋から見た北西部ではなく、北アメリカ州の陸地で見た北西部である。また、言葉が類似しているために、カナダの北西部準州 (Northwest Territory、別名グレート・ノースウエスト) やアメリカの北西部領土 (Northwest Territories) と混同されることがあるので、注意を要する。太平洋岸北西部はその海岸と内陸部も含めた地域の呼称である。北西部海岸 (Northwest Coast) という言葉が海岸地域のみを表す時に使われている。さらに、北西部平原 (Northwest Plateau) という言葉は内陸地域を表現するために使われ、通常は内陸部(the interior)と呼ばれている (ブリティッシュコロンビア州では慣習的に先頭が大文字になり、固有名詞となる)。

この地域の大都市は人口順にカナダのブリティッシュコロンビア州バンクーバー、アメリカのワシントン州シアトルオレゴン州ポートランド、ワシントン州スポケーンタコマアイダホ州ボイシおよびワシントン州のバンクーバーである。

この地域の生物群系や生態地域は周りの地域とはっきり異なっている。ジョージア海峡-ピュージェット湾の盆地はブリティッシュコロンビア州とワシントン州に分かれており、世界でも最大の暖帯多雨林である太平洋暖帯多雨林がアラスカ州からカリフォルニア州までの海岸に沿って伸びている。カスケード山脈と海岸山脈から内陸の乾燥地域は地形的にも気候的にも海岸とは大変異なり、コロンビア平原、フレーザー平原およびそれら山脈に含まれる山地で構成されている。内陸部の気候は大西部の砂漠気候が北に伸び、はるか南のグレートベースンまで広がっている。その乾燥砂漠地帯の北限は寒帯の針葉樹や様々な高山植物地帯で縁取られている。
定義と関連用語太平洋岸北西部の異なる定義と関連用語

大西洋岸北西部を大まかに定義すれば、東西は太平洋から北アメリカの分水嶺まで、州で表現するとワシントン州の全部、オレゴン州、アイダホ州およびブリティッシュコロンビア州の大半、またアラスカ州、ユーコン準州およびカリフォルニア州の隣接する部分となる ⇒[1]。他にカスケード山脈から派生したカスカディアという呼び方があり、太平洋岸北西部と同じような範囲を指すが定義はない。太平洋岸北西部という呼び方が19世紀初期に起源があり、かなり古いものである。

カスカディアは、1980年代に新造された新しい呼び方であり、地質学生態学および気候学で使われ、またカスカディア独立運動というような時や地域市場を表現して小さな事業や組織に使われている。2つの言葉の中で、太平洋岸北西部のみがどの場合でも使われ、カスカディアが表すよりも広い範囲を含んでもいる。カスカディアはより海岸に近く、ワシントンとオレゴンの常緑樹林三角地帯に限られることがある。生態地域に関しては、カスカディアという言葉で、北アメリカの暖帯多雨林帯を通って太平洋に注ぐ川の水系と定義できる。

アメリカ合衆国では、太平洋岸北西部という言葉がアメリカ合衆国北西部の公式の地域大半に対して使われる。これには合衆国の州が含まれているが、カナダは含まれていないし、連続性からアラスカも除外されることがある。
歴史
ヨーロッパ人による初期の探検

イギリス船の船長で元は私掠船に乗っていたフランシス・ドレーク1579年にオレゴンの海岸沖を航行した。フアン・デ・フカというスペインに雇われたギリシャ人の船長が、1592年頃にファンデフカ海峡を発見した可能性があるが、実際に発見したのかどうかは長い間疑問のままである。彼は太平洋岸に開いた大きな入り江からアメリカ大陸北方の海に達して北西航路を発見したと主張したが、このような海は現実には存在しないため彼の功績は疑わしい。しかし、後世になってオリンピック半島バンクーバー島の間の短い海峡はフアン・デ・フカに因んで名づけられた。1740年代の初期に、ロシア帝国デンマーク人のヴィトゥス・ベーリングをこの地域に送り込んだ。1700年代遅くまでにまた19世紀に入って、ロシアの開拓者が太平洋岸に幾つかの基地と地域社会を建設し、最終的にカリフォルニア州のフォートロスまで到達した。

1774年ヌエバ・エスパーニャの副王がフアン・ペレスをサンチアゴ号で太平洋岸北西部に送り出した。ペレスは1774年7月18日クイーンシャーロット諸島に上陸した。ペレスが到達した北限は北緯54度40分であった。この後の1775年、ブルーノ・デ・エセタの指揮でフアン・ペレスとフアン・フランシスコ・デ・ラ・ボデガ・イ・クアドラを士官とした別のスペイン人遠征隊が続いて、1775年7月14日オリンピック半島のキノールト河口付近に上陸した。壊血病に罹ったエセタはメキシコに帰還した。1775年8月17日、帰途にあったエセタはコロンビア川の河口を見つけたが、それが川なのか海峡なのか見分けが付かなかった。船で中に入ってみようとしたが早い潮流のために失敗した。そこをバヒア・デ・ラ・アスンシオンと名づけた。エセタが南に行く一方で、クアドラは遠征隊の第2船ソノラ号で北への旅を続けた。クアドラは帰路につく前に北緯59度まで達した[1]

1776年イギリスのジェームズ・クック船長がバンクーバー島のヌートカ湾を訪れ、さらにアラスカのプリンス・ウィリアム湾まで航海した。1779年、スペインの3回目の遠征隊が、プリンケサ号に乗ったイグナシオ・デ・オルテガの指揮で、またクアドラをファヴォリテ号の船長として、メキシコからアラスカの海岸まで航行し、この時は北緯61度まで達した。スペインは他にも1788年1789年の2回、どちらもエステバン・ホセ・マルチネスとゴンザロ・ロペス・デ・アロの指揮で太平洋岸北西部を航行した。この後の方の遠征の時に、アメリカ人のロバート・グレイ船長とヌートカ湾近くで出会った。ヌートカ湾に入ったところで、スペイン隊はウィリアム・ダグラスとその船イフィゲニア号を発見した。この後に起こったのがいわゆるヌートカ事件であり、ヌートカ協定として知られる合意で解決した。1790年、スペインはフランシスコ・デ・エリザの指揮でヌートカ湾に3隻の船を派遣した。エリザはヌートカに基地を建設した後で、幾つかの探検隊を送った。サルバドール・フィダルゴは北のアラスカ海岸へ向かった。マニュエル・クインパーはゴンザロ・ロペス・デ・アロを水先案内人として、ファンデフカ海峡を探索し、途中でサンフアン諸島とアドミラルティ入江を発見した。フランシスコ・デ・エリザ自身はサンカルロス号を駆ってファンデフカ海峡に入った。ポート・ディスカバリーの基地からサンフアン諸島、ハロー海峡、ロザリオ海峡およびベリンガム湾を探索した。ジョージア海峡を発見する過程で北のテハダ島まで探った。エリザは1791年8月にヌートカ湾に戻った。別のスペイン人探検家ハキント・カーマノが1792年5月にアランサス号でヌートカ湾を航海した。そこでカーマノはスペイン開拓地を指揮していたクアドラと出会った。クアドラがカーマノを北へ派遣し、今日アラスカ・ペンハンドルと呼ばれる地域を探検させた。カーマノの地図を含み様々のスペイン人の手になる地図が1792年にジョージ・バンクーバーに手渡され、スペインとイギリスは共同で複雑な海岸線の地図を作った[1]

ジョージ・バンクーバーはイギリスのために地図を作成した。その範囲はピュージェット湾の湾や入江、ジョージア海峡、ジョンストン海峡、クィーンシャーロット海峡およびブリティッシュコロンビア州の海岸線やアラスカ・ペンハンドルの海岸線にまで及んだ。スペインの最後の探検隊は、ディオニシオ・アルカラ・ガリアーノとカエンターノ・バルデスの指揮で、1792年6月21日にジョージア海峡でバンクーバーと会った。バンクーバーはピュージェット湾を探検したばかりだった。スペイン探検隊はアドミラルティ入江とまだ探検していないその南部の地域について知ったが、北へ向かうことにした。スペイン隊はバンクーバーに会う少し前にフレーザー川を発見し中に入っていた。ガリアーノ、バルデスおよびバンクーバーは地図を交換し、共同作業を行うことに合意して北に向かい共に海岸線の地図を作った。ジョンストン海峡を通過し、またヌートカ湾に戻った。この結果ヌートカ湾を出発したスペインの探検隊は、ヨーロッパ人で初めてバンクーバー島を一周したことになった。バンクーバー自身はまずヌートカに行かずにフアンデフカ海峡に入っていたので、バンクーバー島を一周したことにはならなかった[1]


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