太宰府天満宮
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太宰府天満宮


本殿(重要文化財)
所在地福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度31分17.49秒 東経130度32分5.45秒 / 北緯33.5215250度 東経130.5348472度 / 33.5215250; 130.5348472 (太宰府天満宮)座標: 北緯33度31分17.49秒 東経130度32分5.45秒 / 北緯33.5215250度 東経130.5348472度 / 33.5215250; 130.5348472 (太宰府天満宮)
主祭神菅原道真公
社格等旧官幣中社
別表神社
創建延喜19年(919年)
本殿の様式五間社流造檜皮葺
札所等菅公聖蹟二十五拝
例祭9月25日
主な神事鷽替え・鬼すべ(1月7日)
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}太宰府天満宮
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境内(2010年)楼門奥部の参道表参道の突き当たりにある『御神牛太宰府天満宮の象徴『梅紋2023年5月より使用される仮本殿。設計は藤本壮介
太宰府天満宮

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社。旧社格官幣中社で、現在は神社本庁別表神社。神紋は梅紋である。菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上[1]、年間にすると850万人以上[2]の参詣者がある。現在、京都北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。
祭神

菅原道真公
学問の神として広く知られている。
歴史

右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国大宰府員外帥として左遷され、翌々年の延喜3年(903年)に同地で死去した。その死後、道真の遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)がを建立、天原山?院安楽寺と号した。一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である[注釈 1]

それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳で死去。狼狽した朝廷は、延長と改元したうえで、4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去した。そしてついに延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。承平元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多法皇も死去している。わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が死亡したことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った[3]寛和2年(986年)、道真の曾孫菅原輔正によって鬼すべ神事が始められるようになった[4]

寛弘元年(1004年)、一条天皇が初めて北野天満宮行幸されて、太宰府へも勅使をつかわせて以来、士庶の崇敬を広く集め、とくに承徳元年(1097年)、大江匡房太宰権帥に任ぜられてからは神幸祭など、祭祀が厳かになったという[5]

本殿が再建されたのは、時代が変わって安土桃山時代天正19年(1591年)、小早川隆景によるものである。

江戸初期に黒田氏が国主になってからは、常に社域の整備や社殿の修復・造営がおこなわれて社運は隆盛、九州でも多くの観光客を集める神社となっている。

文明12年(1480年)に当地を訪れた連歌師宗祇が『筑紫道記』にこの安楽寺天満宮のことを記しているが、道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、道真が生前優れた学者であったことにより学問の神としても信仰されるようになった。

明治に入り、新政府の神仏分離の処置で、天満宮周辺に住む多くの社僧は復飾・還俗や財産処分などを余儀なくされ、 講堂、仁王門、法華堂などの建物や多くの仏像などは破壊あるいは売却され、天満宮の御神体であった道真公御親筆の法華経も焼き捨てられ、安楽寺は廃寺となる。

近代社格制度のもとで明治4年(1871年)に国幣小社に列格するとともに神社名を太宰府神社に変更した。これは北野天満宮が近代社格制度のもと「北野神社」に変更したのと同様に、「宮」号が基本的には皇族を祭神とする神社しか使用できなくなったからである。同15年(1882年)には官幣小社に昇格、次いで同28年(1895年)には官幣中社に昇格した。神社の国家管理を脱した戦後の昭和22年(1947年)に社号を太宰府天満宮に復した[6]

祭神の菅原道真が「学問の神様」であると同時に「文化の神様」としても信仰されていたため、それぞれの時代の人々による和歌連歌歌舞伎書画の奉納を通じて、文芸・芸能・芸術、いわゆるアートと関係が深まっていった[7]平成の時代においても、女性音楽グループが本殿前に特設の舞台を設け歌唱奉納を行うなどしている[8]。また、奉納絵馬は九州でも指折りの質量となっており、それを掲げた絵馬堂はギャラリーとしての役割を果たしている。

参道を登りつめた先には延寿王院があり、ここは幕末維新の策源地といわれ、三条実美たち公卿5人が3年半余り滞在した所である。土佐脱藩の土方久元中岡慎太郎も滞在しており、薩摩西郷隆盛長州伊藤博文、肥前の江藤新平坂本龍馬なども来訪している。

太宰府天満宮・北野天満宮防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ。


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