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出典検索?: "太宗" 朝鮮王
太宗 李芳遠
李朝
第3代国王
王朝李朝
在位期間1400年11月29日-1418年9月9日
都城開京→漢陽
字遺徳(ユドク、??)
諡号恭定聖徳神功建天体極大正啓佑文武睿哲成烈光孝大王
廟号太宗
生年至正27年5月16日
(1367年6月13日)
没年永楽20年5月10日
(1422年5月30日)
父太祖(五男)
母神懿王后韓氏
王后・王配元敬王后閔氏
妃嬪下記参照
子女下記参照
陵墓献陵
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太宗
各種表記
ハングル:??
漢字:太宗
発音:テジョン
日本語読み:たいそう
ローマ字:Taejong
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太宗
太宗(テジョン、たいそう、1367年6月13日 - 1422年5月30日)は、李氏朝鮮の第3代国王(在位:1400年 - 1418年)。第一次王子の乱で李成桂、第二次王子の乱で二代目を追い落として譲位させると第3代権知朝鮮国事となった[1]。1403年に永楽帝(明の第3代皇帝)によって「朝鮮王」の地位が冊封されると「第三代朝鮮王」を名乗るようになった[2]。
李氏朝鮮開祖李成桂の五男。本名を李芳遠(イ・バンウォン、り ほうえん)という。即位前は靖安君、靖安公[3]。 初代権知高麗国事李成桂(太祖)の五男の「李芳遠」として産まれる。幼少時から聡明かつ冷静沈着な人物として知られ、父が在位中はその補佐に当たった。1383年、高麗朝の科挙に合格して任官、威化島回軍の頃には開京で残留していた家族たちの身辺を保護した。1392年4月、李成桂の簒奪に反対した守門下侍中(副宰相)の鄭夢周は李成桂が狩猟中に負傷した機に乗じて彼ら一派の除去を図ったが、これを探知した芳遠によって暗殺された。この時の功績で同年7月に朝鮮王朝が成立しながら靖安君になり、他の兄弟に比べて有力な後継者に浮上した。 しかし、父王の継妃神徳王后と功臣鄭道伝の牽制をもらいながら王世子に冊封されず、これに不満を抱いたあげく、1398年に揮下の私兵を動員して鄭道伝などを斬殺して政権を握った後、父王太祖を退位に追いやった(第一次王子の乱)[1]。 太祖(李成桂)は隠退し、彼は事実上の長兄である次男定宗(李芳果)を第2代権知朝鮮国事へ擁立した。しかし、私兵の廃止や論功行賞をめぐって対立していた四兄の懐安君(李芳幹)が反乱を起こした。(第二次王子の乱)[1] 反乱は鎮圧されたため、朝鮮国内に自身に対抗出来る武力を持つ勢力は消滅した。そして、定宗を圧迫することで1400年1月に王世弟 権知朝鮮国事へ即位後は国制整備と王権強化を図り、地名を山や川などの自然の漢字が入るように変更した。まず、私兵を廃止して軍備を強化。さらに議政府を最高機関、六曹を中心とする機構をその下に置いた。1401年には「申聞鼓 太宗は王権の強化と中央集権の確立のために幾多の功臣と外戚を取り除いた。1402年、咸鏡道で趙思義を中心とした東北面の乱が起こり、一時は朝廷から派遣した軍が敗れるなど苦戦したが、何とか鎮圧した。 第三代「権知朝鮮国事」の身分であったが、1403年に明の永楽帝から朝鮮国王として冊封を受け、以後は第三代朝鮮王となった[2]。 1403年には鋳字所を設立して金属活字による書籍を印刷することにも成功した。 1404年、太宗は長女である貞順公主の義父である李居易とその息子の李佇を逮捕して、3年前にもう結審された罪目でまた流刑にした。 1405年、定宗が開京に還都させた首都を再び漢陽へ移転することにより、現代までソウルが韓国の首都として定着する土台を築いた。 1406年には寺院の勢力を減退させるために特権を大幅に削減させた。そして行政法典である『経済六典』に『続六典』を追補し、中央集権化を押し進めた。
略歴
第一次王子の乱による太祖の権知朝鮮国事退位
第二次王子の乱と「王世弟」冊封
第三代権知朝鮮国事即位後
李氏朝鮮最初の法貨として、1401年に楮貨発行を行い、一時使用禁止にした布貨も布帛税徴収を条件に容認した。高麗から継続する塩の専売制において、従来の布に限定されていた塩との交換可能品に米や雑穀を追加する課塩法を実施した。
明による「朝鮮王」冊封以後
1418年6月、太宗は王世子に冊封となった長男である譲寧大君が勉強せず、身持ちが悪い上に一日中家出して遊んでばかりいるという理由で、三男である忠寧大君(世宗)を王世子に冊封した。そして2カ月後に世宗に王位を譲って上王となったが、王権の安定のために兵権はなおも握り続けた。同年12月、世宗の義父の沈温
三男への「王世子」冊封と上王即位