太宗 趙光義
北宋
第2代皇帝
王朝北宋
在位期間開宝9年10月21日 - 至道3年3月29日
(976年11月15日 - 997年5月8日)
都城開封
姓・諱趙匡義
趙光義(960年改名)
趙Q(976年改名)
諡号至仁応道神功聖徳文武睿烈大明広孝皇帝
廟号太宗
生年天福4年10月7日
(939年11月20日)
没年至道3年3月29日
(997年5月8日)
父趙弘殷
太宗(たいそう)は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからはQ[注釈 1]に改めた。
概要の三男として生まれる。子供のころから傑出しており、学問を好んだ。父の趙弘殷は趙匡義のために、淮南を征伐した際、州や県を占領しても財貨には一切目もくれず、古書を探して趙匡義に贈ったという。兄の趙匡胤が後周の将軍であった頃から常に協力し続け、趙普らと主導した陳橋の変の際に趙匡胤を擁立する時も、中心となって趙匡胤の説得に当たった。
太祖が即位後、晋王に封じられ、序列は宰相より上に置かれた。太祖が親征を行うと、大内都点検(近衛軍の将軍にあたる)や東都(都の開封のこと)留守に任じられるなど、太祖の右腕として重責を担った。太祖が死去してから、当然息子が後を継ぐところを弟の太宗が即位したことには、非常に不可解な点が多く、「千載不決の議」と呼ばれ、太宗による暗殺説も消えなかった。また、後に太祖の次男の趙徳昭を自殺させ、太祖の四男の趙徳芳が太平興国6年(981年)に不可解な死を遂げた後に自らの子の趙恒を太子としたことは、正統論の厳しい宋においては常に糾弾の声が絶えなかった。
太平興国3年(978年)には独立勢力であった泉州の清源軍節度使陳洪進が領土を納め、呉越の銭俶も両浙の13州を献上し、翌太平興国4年(979年)に北漢を滅ぼし、中国の再統一を達成した。その余勢を駆って遼から燕雲十六州の回復を狙って親征の軍を起こして進撃するが、高梁河において敗れ、開封に撤退した。また太平興国5年(980年)には前黎朝大瞿越の黎桓を討つが、遠征軍は敗退した。
内政面では太祖の路線を踏襲し、軍事力を重視せず、科挙による文官の大量採用を行い、監察制度を整えることで、それまでの軍人政治から文治主義への転換に成功した。
至道3年(997年)、崩御した。 『宋史』は、太宗の治世中に陳洪進・銭俶らの群雄を統合し、北漢を討って中華をほぼ統一したことを評価している。その治世中には北漢や遼、ベトナム、西夏などの相次ぐ戦役や、黄河の決壊や蝗害などの天災が起こったものの、民衆が反乱を起こさなかったのは、太宗の倹約と慈を旨とした政治のおかげだとしている。 ただ、本来なら先代の太祖が死んだ時、年が変わるのを待って改元するべきであったこと、太祖の次男の趙徳昭が自殺してしまったこと、先代の皇后であった宋后の喪を行わなかったことなどは非難されてもやむを得ないことだとしている。また、太祖の死と自身の帝位継承、その後に起きた太祖の四男の趙徳芳や実弟の趙廷美
太宗の評価
太宗の逸話