太学(たいがく、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: taixue)とは、古代の中国や朝鮮・ベトナムに設置された官立の高等教育機関。古代の教育体系においては最高学府にあたり、官僚を養成する機関であった。 「太学」という言葉は、経書に見られる。 『礼記』によれば、舜(虞)は「上庠」という学校を作ったといい、周の時代には「辟雍」という学校があった。こうした貴族子弟のための高等教育機関は「国学」 (zh
中国
経書において
ただし、「太学」が確実な制度として現れるのは、漢代以降とされる[1]。
漢代以後熹平石経残石。後漢時代の石経(儒学の経典を刻んだ碑)の一部。1922年に洛陽の太学の遺跡から発見された。同じ遺跡からは三体石経も見つかっている。
漢の時代に「太学」は首都に所在する高等教育機関の正式名称となった。前漢の武帝が董仲舒の献策によって設置したのがはじめとされている[1]。「太学」は儒教を正統学問とした。
前漢の時代の「太学」は長安(現在の西安市)に設けられ、後漢の時代には洛陽(現在の洛陽市)に設けられた。学生たちは地方から選抜され、試験に応じて官に任用された[1][2]。後漢の時代に学生(弟子員
)の数は3万人を越えたとされ[1]、「清流派」(党錮の禁参照)の拠点として一大政治勢力となった[1]。魏や蜀にも太学が置かれており、呉にも同様のものがあったとみられている[3]。
西晋は洛陽に太学を設け、東晋は建康(現在の南京市)に太学を置いた。
西晋の咸寧2年(276年)、公卿・大夫の子弟(国子)の教育機関として、太学とは別に「国子学」が設けられた。国子学と太学の双方は国子祭酒が管掌した。
隋唐以後詳細は「国子監」を参照
唐代には太学と国子学が並置されており、他の教育機関とともに行政機関「国子監」[注釈 3]の下に置かれた「六学」[注釈 4]のひとつであった。六学卒業者には、科挙の最終試験にあたる省試の受験資格が認められた。なお、唐代の太学では、遣唐使として唐に留学した阿倍仲麻呂が学んでいる。
太学の官僚養成機関としての役割は、宋代に科挙制度が整備されるとともに失われていった[2]。
明代に諸教育機関と教育行政機関は「国子監」という名で一本化され、以後清末までこの名で続いた。 高句麗の時代に「太学」(??
朝鮮半島
中国から百済に移住していた中国系百済人貴族の陳法子の墓誌が中国で出土し、墓誌から百済でも太学が設置されていたことが明らかになっている[5]。太学の長官は「太学正」と称され、中国系百済人貴族の陳春が務めていた[6][5]。
官立高等教育機関として、新羅は「国学」(??)を、高麗は「国子監」(???)を設けた。詳細は「成均館」を参照
高麗王朝末期、「国子監」は「成均館」に改称された。朝鮮王朝でもその名称は引き継がれ、漢城府(現在のソウル市)に置かれた最高教育機関は「成均館」と呼ばれた。
ベトナム)を行ったが、その実施方法は「太学」(Thai h?c)を設立し、太学生(Thai h?c sinh)に試験を受けさせ、これによって進士の資格を取らせるというものであった。
黎利が黎朝皇帝に即位すると(1428年)、首都昇龍(タンロン、現在のハノイ)に「国子監」(Qu?c T? Giam)を置いた。制度は阮朝にも引き継がれ、1803年にフエに国子監(Qu?c T? Giam)が置かれた。阮朝の科挙は1919年を最後として廃止され、国子監も廃止された。
脚注^ a b c d e “太学”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク所収). 2016年10月26日閲覧。
^ a b “太学”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2016年10月26日閲覧。
^ 古勝隆一『中国中古の学術と社会』法藏館、2021年、49-52頁。
^ a b c ???. “5?16?・??? ??? ???? ???・??”. 国史編纂委員会. ⇒オリジナルの2022年11月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221123050319/http://contents.nahf.or.kr/id/NAHF.edeah.d_0002_0010_0040
^ a b ???. “??? ??? (陳法子 墓誌銘)”. 国史編纂委員会. ⇒オリジナルの2022年11月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221123085400/https://db.history.go.kr/id/gskh_008_0010_0080_0030
^ ??? (2014年). “百濟 遺民 陳法子 墓誌銘 ?究”. PAEKCHE - MOONHWA vol.1, no.50 (????? ???????). オリジナルの2018年6月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180613190131/https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001857192
注釈^ なお、庶民のための学校は「小学」と総称され、舜は「下庠」を作ったとされる。
^ 《大戴礼記・保傅》:「帝入太學,承師問道」。この「太學」は辟雍を指す。
^ 「国子監」という名称は隋代に始まったが、これは「国子学」が一時期「国子監」と改称したものである。