太子西山古墳
前方部正面
(敏達天皇河内磯長中尾陵・石姫皇女磯長原陵 拝所)
別名奥城古墳
所属磯長谷古墳群
所在地大阪府南河内郡太子町大字太子
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度30分42.60秒 東経135度38分7.75秒 / 北緯34.5118333度 東経135.6354861度 / 34.5118333; 135.6354861
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[全画面表示]磯長谷古墳群分布図
太子西山古墳(たいしにしやまこふん、奥城古墳<おくつきこふん>[1])は、大阪府南河内郡太子町太子にある古墳。形状は前方後円墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)」および「磯長原陵(しながのはらのみささぎ)」として第30代敏達天皇・石姫皇女(欽明天皇皇后)の合葬陵に治定されている。 大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、葉室集落西方を南北に伸びる丘陵の鞍部に築造された大型前方後円墳である[1]。磯長谷に分布する磯長谷古墳群のうちでは唯一の前方後円墳になる[2]。現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるため、これまでに本格的な調査はなされていない。 墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける[1]。墳丘は2段築成[1][3]。墳丘周辺では埴輪片が採集されているほか、墳丘周囲には空壕が巡らされる[1][3][2]。埋葬施設は明らかでないが、横穴式石室の使用が推測される[2]。 この太子西山古墳は、出土埴輪等より古墳時代後期前半頃の築造と推定される[2]。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第30代敏達天皇(585年?崩御)および母の石姫皇女(崩御年不詳)の墓に治定されている[1][3]。磯長谷では敏達天皇陵のほか用明・推古・孝徳天皇陵と聖徳太子墓が伝わっており、これらは「梅鉢御陵」と総称される。 墳丘の規模は次の通り[1][3]。 太子西山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第30代敏達天皇および母の石姫皇女(いしひめのひめみこ/いしひめのおうじょ)の合葬陵に治定している[4][5][6][7][8]。敏達天皇について、『日本書紀』では敏達天皇14年(585年?)[原 1]に崩御したとするほか、その後の殯を経て、崇峻天皇4年(591年?)[原 2]には先に亡くなっていた石姫皇女(崩御年不詳)の墓に追葬されたとし、その陵号を「磯長陵」とする[6]。また『古事記』では「御陵在川内科長」と見える。『延喜式』諸陵寮[原 3]では敏達天皇陵は遠陵の「河内磯長中尾陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西3町・南北3町で守戸5烟を毎年あてるとするほか、石姫皇女墓は遠墓の「磯長原墓」として記載され、河内国石川郡敏達天皇陵内の所在で、守戸3烟を毎年あてるとする[6]。その後、元禄の探陵の時点では叡福寺領であったほか、元治元年(1864年)には拝所設置、1899年(明治32年)には御在所修補がなされている[6]。 本古墳が敏達天皇陵であれば、天皇陵としては最後の前方後円墳に位置づけられるとともに[3]、埴輪列を有する陵としても最後に位置づけられる[6]。
概要
墳丘
墳丘長:113メートル(または93メートル[2])
後円部 直径:58メートル
前方部 幅:67メートル
被葬者
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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