太刀
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太刀 銘備前国包平作(名物大包平)平安時代 国宝(上)太刀 銘正国六十三代孫波平住大和介平行 安政六年正月日 附菊紋散糸巻太刀拵(中・下)太刀 銘 備州長船秀光 紫檀地花鳥文蒔絵螺鈿太刀 康応元年六月日 附金梨子地菊桐紋糸巻太刀拵、東京国立博物館

太刀(たち)とは、日本刀のうち刃長がおおむね2(約60 cm)以上で、太刀緒を用いて腰から下げるかたちで佩用(はいよう)するものを指す。平均的な刃長は約80 cmほどである。

なお、刃を上向きにして腰に差す打刀とは区別される。

佩用でも差して用いるものも、その際の刃の左側(左腰での体の外側)が表であり(佩表と差表)、の表へ刀工の「銘」を切ることから、両者は区別可能だが、少なからず例外も存在する。

なお古墳出土品や正倉院伝来品などの上古直刀については区別して「大刀」の字を当てるが、同じく「たち」と読ませている。
概要太刀 銘安綱(名物童子切安綱)平安時代 国宝

語源は、断ちから来ているという。なお、「太刀」は一般的に平安時代以降の鎬(しのぎ)があり、反りをもった日本刀を指す。

馬上での戦いを想定して発展したものであるため、反りが強く長大な物が多いという特徴がある。平安時代頃から作られ始め、鎌倉時代南北朝時代と使用され続けた。

しかし応仁の乱を経て室町時代後期、戦国時代になると、弓矢薙刀、太刀を使った騎乗中心の武士同士の戦いから、火縄銃などで武装した大量に動員された足軽による徒歩での集団戦が主になり、太刀より短くて軽量で徒戦(かちいくさ:徒歩による戦い)に向いた打刀が台頭していった。また打刀の流行や江戸幕府による刀剣の長さ規制などに合わせて、多くの太刀のが切り詰められて短小化されて根元部分の刃を潰されて打刀に改造された。このような短小化を磨上げ(すりあげ)という[1]

打刀が武士の刀として主流になってからは、太刀は上級武士の権威の象徴としての役割を強めていった[2]。儀式の際は武家も太刀を佩用した。

なお、現在の刀剣分類では「銘」をどのように切るかによって「太刀」と「刀(打刀)」を区別するが、必ずしも分類基準に即して銘が切られているものばかりではなく、また「太刀」であっても「打刀」様式の外装に収められているものや、逆に「打刀」であっても太刀様式の外装に収められているものもあるため、刀身、外装共に外見での区別は難しい場合も多い。

鎌倉時代は日本刀の黄金時代とみなされており、この時代の太刀に国宝が多い。21世紀時点で日本刀は100件以上が国宝に指定されているが、そのうちの8割が鎌倉時代の刀剣で、7割が太刀である[3][4]

国宝に指定されている鎌倉時代の太刀 (全て東京国立博物館蔵)

長光作、長船派

岡田切吉房吉房作。福岡一文字派

日光助真助真作、福岡一文字派、徳川家康が所有していた。

助真作。紀州徳川家が所有していた。

小龍景光景光作、伝楠木正成所有。

用法鳥飼潟の戦いにおいて元軍に弓を射る白石通泰の手勢。太刀を携行している。

平安時代末期までは騎射が主流であり、太刀は下馬時や喧嘩や強盗などに使う日常生活上の武器、矢が無くなった際の予備の武器という認識が強かったと推測されている。治承・寿永の内乱の頃になると、合戦での馬上での太刀の使用率が増えていったが、どちらかといえば徒歩(下馬・落馬時)の使用を推奨されていたという[5]

具体的な使用方法は、敵の兜の鉢を叩き脳震盪でふらついたところに飛び込み腰刀で首をかくというような使用法が多く行われ、南北朝時代になると兜の内側に浮張と呼ばれるクッションを設け、兜を装着時に結ぶ紐も複雑になり安定性を増すという対策がとられている[6]

攻撃力が高いため、槍や薙刀、弓を主力とする合戦の補助武器としても重宝された[7]。しかし、馬上では薙刀などの長物より扱いやすいため[8]、南北朝期?室町期(戦国期除く)には騎馬武者(打物騎兵)の主力武器としても利用された[9]

この時代は大太刀に象徴されるように太刀が薙刀と共に戦乱の中で大いに活躍した。[10]槍や薙刀を持った敵と戦う場合は武器の軽さを利用して、素早く立ち回る必要がある。相手はリーチが長い分、隙も大きくなるのでそこをついて応戦できる利点が戦で際立ち、定番化した。[7]

また、軽武装の足軽・雑兵ならともかく、騎馬武者を斬り殺す事は不可能に近いので打撃効果が重視された。その為、南北朝時代には通常の太刀も大型化した。[9]しかし、大型化した通常の太刀は大太刀や大薙刀共に南北朝時代の二十数年間という短期間で流行が廃れている。[11]大太刀は大きめの太刀や大薙刀とは違い、安土桃山時代に再び流行した。[12][10][13]

太刀と大太刀という二種類の刀は「斬る物」より「打つ物」であった。[14]太刀と「打ち物」が同義語であることには意味がある。つまり、太刀は敵を斬るより殴るための武器であったのだ。[14]馬上での太刀打ちは南北朝時代の特徴であり、太刀の先で敵を斬ることも不可能ではなかった。[14]敵を殴るには力が必要であったが、折れたり、敵の体につまって抜けない時もあった。[14]

腰に佩くという形式のため、地上での移動に邪魔という欠点があった。[12]その為、戦国時代には打刀にとって代わられていった。[7]
太刀の種類(刀身の例)太刀 銘雲生 鎌倉時代 重要文化財 東京国立博物館
雲生は備前国の刀工。切先は尋常な大きさの鎌倉時代の太刀姿である。(刀身の例)太刀 銘兼氏 南北朝時代 重要文化財 個人蔵
兼氏は美濃国の刀工。切先が大きく延びた南北朝時代の太刀姿である。
長さによる分類
太刀
現代では刀身が2尺(60 cm)以上、3尺(約90 cm)未満のものを指す。刀身が2尺6寸(76 cm)以上のものが多い
[15]
大太刀
野太刀とも呼ばれ、刀身が3尺以上の太刀を指す。大型のものでは10尺(約3.3 m)以上になるものも存在する。鎌倉時代に好んで作られたが、後に摺り上げられて通常の長さに直されてしまったものが多く、現存するものは少ない。
小太刀
刀身が2尺未満のもの。形状は直線的なものが多い。現代では脇差との違いは曖昧であり、その存在理由については各説ある。

刀身長による分類の方法には、文献や研究者によって違いがあり、大太刀が刀身が5尺(約150 cm)程度のものを、野太刀が刀身が3尺以上のものとすることもある。一般的には大型の太刀をまとめて大太刀と呼び、別称して「野太刀」とも呼ぶことが主流である。
拵えによる分類
衛府太刀(えふのたち)
六衛府に使える武官が佩用した太刀。簡素な兵仗用と豪華な儀仗用があり、兵仗用は後述の厳物造太刀や黒漆太刀へと発展変化し、儀仗用は時代が下るにつれ後述の細太刀と同一化されていった。儀仗用の鐔は飾太刀や細太刀と同じ分銅鐔である。後述の毛抜形太刀は用いられた時期的に殆どがこの「衛府太刀」の拵えで作られており、「衛府太刀」と言えば毛抜形太刀を指すことも多い。
飾太刀(飾剣、かざりたち)、細太刀(ほそだち)
梨地螺鈿金装飾剣(なしじらでんきんそうのかざりたち)。12世紀の平安時代国宝東京国立博物館蔵。高位の公家は衛府太刀の儀仗用をさらに豪華にした飾太刀(飾剣、かざりたち)を儀仗用に着用した。鍔が「分銅鍔」と呼ばれる独特の形状をしていることが特徴である。位階が低い経済的に余裕がない公家は飾太刀の簡素版の細太刀を儀仗用に装備した。儀仗用なので武器としての機能は求められなく、刀身は薄くて平らな鉄芯で代用された。これらの太刀は最初は形状が真っすぐであったが、鎌倉時代から武用の太刀の影響を受けて湾曲していった[16]


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