太上天皇
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太上天王」とは異なります。
光厳上皇宸筆「太上天皇」

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)は、譲位により皇位を後継者に譲った天皇尊号[1]、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにある。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。

略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。

「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。
概要.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "太上天皇" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年1月)
日本史上最初の太上天皇となった持統天皇飛鳥時代

日本皇室における譲位の初例は皇極天皇であったが、この時点では君主号は「天皇」ではなく「大王」であり、当然「太上天皇」という称号もなかったため「皇祖母尊」(すめみおやのみこと)という臨時の尊号が設けられた[注釈 1]。また、その後皇極天皇自身が、斉明天皇として重祚している。その後、大宝令において太上天皇の称号が定められたことで、持統天皇11年(文武天皇元年)8月1日(697年8月22日)、持統天皇が文武天皇に譲位し、史上初の太上天皇(上皇)になった。

日本の皇室には、江戸時代後期仁孝天皇譲位した光格上皇まで、計59人の上皇が存在した。つまり、歴代天皇のうち半数近くが退位して上皇となっている。ただし、平安時代以降「天皇の崩御」という事態そのものが禁忌として回避されるようになり、重態となってから譲位の手続きが行われて上皇の尊号が贈られ、直後に崩御した例が多い。醍醐天皇は譲位後8日、一条天皇は10日、後朱雀天皇は3日で崩御している(ただし、こうしたケースの場合、後述される次代の天皇による太上天皇の称号奉上が間に合っていない)。後一条天皇に至ってはその崩御があまりにも急であったためそれさえも間に合わず、その事実を隠したまま譲位の手続きを進め、それが完了してからはじめて崩御を公表するありさまであった。江戸時代後光明天皇などでも同様のことがあった。後桃園天皇に至っては、正式な在位終了日が崩御日の10日後という異常な状態のままになっている。これは、あくまでも「天皇の崩御」ではなく「上皇の崩御」として取り扱うための便法である。

持統天皇以来、太上天皇の称号は退位した天皇が自動的に称するものであり、特段の儀式は必要なかった。時代が下って嵯峨天皇は、自らの異母弟である淳和天皇への譲位に際し、太上天皇の称号の辞退を申し出た。太上天皇は在位の天皇を親権者として支えることから、天皇と同格の権威と権限を有するものとされていたが、嵯峨天皇の場合、に過ぎず親権者ではない平城上皇との間で権力の分掌をめぐって深刻な対立を生じ(薬子の変)、ついにクーデターで兄を排除せざるを得なくなった。このため、二重権力の弊害を避けるために太上天皇を辞退したものである。ただ淳和天皇はこれを受け入れず、最終的には淳和天皇が嵯峨天皇に対して太上天皇の称号を奉上する(淳和天皇が嵯峨天皇に対して太上天皇の称号を宣下する)ことで解決がはかられた。これにより、太上天皇の意味合いは、新天皇から与えられる地位に変化したのである。これを踏まえて歴史学界では、一般に、平城までの太上天皇はそのまま「太上天皇」と呼び、嵯峨天皇以降の太上天皇を「上皇」と呼び分ける慣習となっている。

なお、仁明天皇後醍醐天皇のように、退位と崩御がほぼ同日だったため、退位後も存命だったにもかかわらず太上天皇の宣下が見送られたケースもある。また淳仁天皇は、藤原仲麻呂の乱の結果として強制的に皇位を追われ、淡路国に流されたまま崩御したことから、「淡路廃帝」と呼ばれて歴代天皇として認められず、尊号は贈られなかった。安徳天皇も弟の後鳥羽天皇の即位により廃帝とみなされた。仲恭天皇は即位の礼も経ないまま位を追われたため、即位の事実自体を認められず「九条廃帝」「後廃帝」と呼ばれてやはり歴代天皇から外され、宣下はなされなかった。なお、 淳仁天皇と仲恭天皇については、明治天皇によって改めて尊号が追号された。

光厳天皇後醍醐天皇の政権奪取により廃位され、即位の事実自体も否定されたが「皇太子を辞退したことに対する褒賞」として特例で太上天皇の称号を認められた。崇光天皇観応の擾乱のさなか足利尊氏南朝への降伏(正平一統)により北朝が一時的に消滅したため廃位となったが、融和策を採った南朝側の配慮で太上天皇とされている。後村上天皇長慶天皇は南朝により太上天皇とされた可能性があるが、北朝側は承認しなかった。後亀山天皇も北朝側から歴代天皇として認められず、かろうじて太上天皇の称号は得たものの、これは足利義満が朝廷の反対を押し切って独断で決めた強引なものであり、それさえも「天皇になっていない太上天皇」の扱いを受けた。天皇号が絶えていた時期にも、太上天皇号は変わらず用いられた。右に「曾孫太上天皇昭仁」とある。「昭仁」は桜町天皇で、当時は太上天皇。亡き曽祖父・霊元天皇に捧げたもの(江戸時代後期

孝謙天皇は、いったん退位して太上天皇となったのち、後任の淳仁天皇廃位した上で自ら称徳天皇として重祚し、天皇に復帰した。上皇から天皇に復帰したのは、ほかに後醍醐天皇の例があるが、こちらは元弘の乱に敗れて御謀叛方となった後醍醐天皇側があくまで退位を拒み、京都では光厳天皇が在位し、自らは隠岐に流されている間も「自分が正統な天皇である」と主張し続けた結果であり、本人は最後まで重祚とは認めなかった。江戸時代までの一般的な皇室系図では後醍醐天皇を重祚とした上で便宜上一代とし光厳も歴代天皇となっていたが、明治維新によって南朝正統となった結果、2023年令和5年)現在の皇統譜は後醍醐側の主張を容認し光厳を歴代外の天皇としている。

その他、天皇としての即位を経ずに太上天皇位を受けた者が2名(後高倉院後崇光院)おり、薨去後に太上天皇号を贈られた者が2名(誠仁親王、陽光院閑院宮典仁親王、慶光天皇)いる。


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