天野篤
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天野 篤
生誕 (1955-10-18)
1955年10月18日(68歳)
日本 埼玉県蓮田市
教育日本大学医学部
活動期間1983年 -
医学関連経歴
職業外科医
所属順天堂大学医学部
専門心臓外科
研究心臓血管手術
受賞蓮田市市民栄誉賞
イグノーベル賞医学賞

天野 篤(あまの あつし、1955年10月18日 - )は、日本外科医順天堂大学医学部心臓血管外科特任教授学位博士(医学)。専門は、心臓血管外科虚血性心疾患弁膜症に関する研究。BS-TBS番組審議会委員。
概要

冠動脈バイパス術の専門医として年間400件以上の心臓手術を執刀し、『ゴッドハンド(神の手)』、『98%の成功率を持つ心臓外科医』などと称される[1][2]

2012年平成24年)、第125代天皇明仁の冠動脈バイパス術を執刀して成功し[3]、「天皇陛下の執刀医」と広く知られた[4]

心臓外科を扱ったテレビドラマ「医龍-Team Medical Dragon-」や、映画「チーム・バチスタの栄光」の監修にも携わっている。
生い立ち
幼少期

1955年昭和30年)、埼玉県蓮田市に、燃料店の長男として生まれる[5][6]。母は華道の家元でもあった。母には婚約者がいたが第二次世界大戦で戦死し、お見合いにより父が婿養子に入った。天野は長男で、がいる[5]

小児期には大腸カタル(過敏性腸症候群)を患い、緊張するとよく下痢をきたした。父方の伯父である小児科医から診察されて処方薬を飲むと改善したため、医師を身近に尊敬していた[7]

幼少期から手先が器用であり、プラモデル制作を愛好していた。潜水艦のプラモデルを川に投入する際は、「目的地点までどのように気密性を保たせればよいのか」と考えていたという。建築士になりたいという夢もあり、小学校5年生時に両親が家を建て替える計画を聞いて「設計図」を描いた[5]
小学時代

小学校時から学業成績がよく、全国統一学力テストでは埼玉県内で第2位の成績だったという。体育や家庭科、音楽などでも優秀であった[5]
中学時代

中学校は埼玉大学教育学部附属中学校へ進んだ。進学の動機は、水泳が好きだった天野に母が「地元の公立中学校にはプールがないよ」と諭したためであった。中学では水泳部に所属し、浦和市大会では優勝も経験した[8]
高校時代

高校は県内最難関の埼玉県立浦和高校に苦労なく入学した。入学時点での成績は410人中60位程度で、東京大学への合格圏内であった[8]。しかし、天野は麻雀とスキーへ没頭し、成績が下降していった。当時の浦和高校は自由放任主義であり、教師には授業よりも世間話や自著の宣伝などを行う者が多く、生徒も授業を無断欠席して好きなことをする者が多かった(出席確認はなかった)[2]

天野は授業を無断欠席し、写真部の地下室で麻雀に打ち込んでいた。生徒内でリーグ戦があるほどの盛況であった。天野は数学化学などの科目は予習して授業にも参加していたが、古典など興味のない科目は欠席していた[2]。また天野は夏休みに水泳のインストラクターやプール監視員のアルバイトで貯金し、冬になると一人で夜行列車『越後』で新潟県まで行ってスキーに明け暮れていた[2][8]

なお浦和高校には伝統の「強歩大会」があり、全校生徒が約50キロメートルを走破して順位を競ったが、天野は運動部に所属しない生徒の中ではトップクラスの順位であった。後に「こうした持久力は、心臓手術においても非常に重要だ。持久力は私の強みだと思っている」と語っている[2]

天野の中学入学頃から父は病弱となり、母は天野に医師になるよう求めていた。天野は当初反抗しており、プロスキーヤーか建築家を志望していた。しかし高校2年生時に父が弁膜症による心不全呼吸困難をきたして東京大学病院に入院し、天野は医師になって父の病気を治すことを決心した[2][7]

しかしそれでも勉強には身が入らず[2]、麻雀を楽しむ生活は変わらなかった。高校3年生の1学期には古典の成績が最低の『1』となり、父が学校へ呼び出されて教師から警告された。高校3年3学期の古典の試験で「50点満点中10点取らなければ卒業させない」と警告されていたが、10点ちょうどで卒業した。高校卒業時の成績は学年内310位程度であった[8]
浪人時代
1浪

高校卒業時には医師を目指し、弘前大学医学部を受験した。同大学を受験した動機は冬に毎日スキーができると思ったことであったが、不合格であり浪人生となった[7]

御茶ノ水駿台予備学校へ通塾しようとしたが、予備校の入塾試験にも不合格となった。仕方なく他の予備校へ通ったが、真剣に勉強せず、麻雀に熱中するうちに成績はさらに悪化していった。模擬試験では東京大学への合格可能性が当初B判定だったが、E判定にまで悪化した[7]

私立の獨協医科大学北里大学などの入学一次試験には合格したが、二次試験の面接では不合格となり、二年目の浪人生活を迎えた。天野は「当時の私立大学医学部では、開業医の子弟などを優先して合格させるため、自身のような中流家庭は不利だった」と述べている[7]
2浪

浪人2年目は予備校には通わずに図書館で自習を始めたが、6月頃には勉強を続けなくなった。20歳を迎えたことで飲酒喫煙、そしてパチンコを覚えた。

大宮駅近辺のパチンコ店の営業開始と同時に入店し、閉店まで同じ姿勢で集中する日々を繰り返した。パチンコの腕前は「プロ級」で、1日1万円程度は稼いでいたという。後に天野は「パチンコで鍛えた腕前が手術にも活かされた」[9]「手術中に手が震えないのはパチンコのおかげ。他の外科医との違いはパチンコしかない」と語っている[9]

再び大学受験には失敗し、3度目の浪人生活を迎えた。パチンコで稼いだ金銭を次の医学部入試の受験料として貯めた[9]
3浪

浪人3年目から真剣に受験勉強を始めた。パチンコが手打ち式から電動式に変わったことで勝率が下がり、興味を失ったこと、また父の病状が悪化して迷惑をかけられないことから、医学部入学を決意した[9]

1年間猛勉強し、受験日程の戦略から国立大学1期校と試験日が重なる日本大学医学部を受験して合格した。後に天野は3年間の浪人生活について、「挫折を経験したことで患者さんを助ける覚悟ができたのだと思う」と語っている[9]
大学時代

大学時代はスキー部に入るも上下関係が厳しく、技術力に関係なく上級生しか試合に出られないため1年で退部、その後はテニス部に入り集中力・体力・チーム力を養った[10]


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