天竺
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この項目では、古い地域名称について説明しています。の種類については「天竺木綿」をご覧ください。

天竺(てんじく)とは、中国朝鮮日本が用いたインドの旧名[1]。ただし、現在のインドと正確に一致するわけではない。
由来玄奘大唐西域記』の記述をもとに描かれた歴史地図(アレキサンダー・カニンガムの"The Ancient Geography of India"(1871年)に収録)。図中のC, N, E, S, W は、『大唐西域記』に記された中印度・北印度・東印度・南印度・西印度のおおよその領域を、赤色の線は玄奘の旅行路を示す。

中国人がインドに関する知識を得たのは、張騫中央アジア(後年の用語で言う西域探検によってであった。司馬遷の『史記』では、インドを身毒(しんどく)の名で記している(大宛列伝、西南夷列伝)。天竺の名は『後漢書』に見える(西域伝「天竺国、一名身毒、在月氏之東南数千里」)。また天篤という字も使われた[2]

なお、日本では天竺を「テンジク」と読む慣習読みが普通であるが、竺は「ジク」の他に「トク」の音もあり、毒、篤などと同系統の音訳であるとわかる。

インダス川のことをサンスクリットで Sindhu、イラン語派では Hindu と呼んだ。またイラン語派の言語ではインドのことをインダス川にちなんで Hinduka と呼んだ。身毒も天竺も、この Hinduka に由来している[3]


おなじ Hindu が 古代ギリシア語: ?νδ?? を経て、ラテン語: Indus となり、そこから India の語が生まれた。

インド方面から中国に渡来した人の姓としても「竺」の字が使われた(竺法護)。また、仏教の僧侶が竺姓を名乗ることもあった(竺道生)。

後に、音韻変化によって天竺や身毒が Hindu と音の違いが大きくなると、賢豆という字もあてられた[4]

天竺にかわって印度の語をはじめて用いたのは玄奘であるが、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている[5]。また、この語をインドラの町を意味する Indravardhana に結びつける説も現れた[4]。唐代以降の中国では印度の呼称が一般的になったが、日本では古代から明治にいたるまで天竺の呼称が用いられた[6][7]

朝鮮語では天竺(??、チョンチュク)と呼称した。
五天竺

天竺は、中天竺・北天竺・東天竺・南天竺・西天竺の5つに分けられるとされ、合わせて「五天竺」と呼ばれた[8][9][10](中天竺を「中天」、西天竺を「西天」と呼ぶように、天竺を天と縮約した表現でも呼ばれる)。唐代の新羅出身の僧・慧超の旅行記『往五天竺国伝』にある「五天竺国」とはこれである[11]。北宋代に成立した『冊府元亀』の朝貢記録によれば、則天武后の頃に五天竺の国王が中国に来貢したとある[10]。日本では仏教的世界観を描いた地図として「五天竺図」(「天竺図」)も描かれた[12][9]

五天竺は本来地理的な呼称であったが、釈迦が活動領域とした「中天竺」を中心とする思想的な意義づけも行われた[10]。「南天竺」は龍樹(ナーガールジュナ)の出身地であり、「南天竺鉄塔伝承」が密教では重要視された[13]
日本における「天竺」
仏教発祥の地としての「天竺」

日本において、「天竺」の概念は仏教とともに広まった[14]

奈良時代の736年に来日し、東大寺の大仏の開眼供養会の導師をつとめた菩提僊那(ボーディセーナ)は、「南天竺」の婆羅門(バラモン)階級出身の僧侶であったと伝えられる[15][16][注釈 1]

9世紀の中国(唐)の詩人・段成式による随筆『酉陽雑俎』によれば、段成式と面識のあった金剛三昧と呼ばれる日本僧は、中国から西域を経由して中天(中天竺)を訪れたという[注釈 2][19]。9世紀後半には、僧侶であった高岳親王が中国から天竺を目指したが、その途中「羅越国」(マレー半島南端付近)で没したとされる[20]

13世紀初頭の明恵は天竺訪問を強く志し、玄奘の『大唐西域記』をもとに長安から王舎城(ラージギル)までの旅行計画を立てたものの、反対を受けて果たせなかったというエピソードが知られる[21]。仏教発祥の地である「天竺」=インドは、日本人にとっては長らく到達不可能と言える、はるか遠い国であった[16]
「三国世界観」のなかの「天竺」

平安時代後期、日本の国家・王権が対外関係と距離を置くようになると[22]、世界は本朝(日本)・震旦中国)・天竺から構成されるとする世界認識(「三国世界観」と呼ばれる)が生まれ[14][23][24]、12世紀ごろには日本社会に定着した[22]。たとえば『今昔物語集』は天竺・震旦・本朝の三部で構成されている。『義経記』八巻には「真に我が朝の事は言ふに及ばず、唐土天竺にも主君に志深き者多しと雖も、斯かる例なしとて、三国一の剛の者と言はれしぞかし」という文言が見える。

三国世界観のもとでの「天竺」は、釈迦が生まれ仏教が発祥した国と意識されていたものの[23][24]多分に空想的な世界であり[14][24]、中国よりも遠くにある地域が漠然と「天竺」と呼ばれた[14]
「天竺」概念と現実のインドの乖離

インドにおいてはさまざまな理由でインド仏教が衰退し(インドにおける仏教の衰退参照)、13世紀には決定的に没落したとされる。一方、8世紀にインドに波及したイスラム教は、次第に勢力を広げた(インドにおけるイスラーム参照)。ヨーロッパ人がアジア海域に登場するまで、インド洋から南シナ海にかけての交易は、インド出身者を含むムスリム(イスラム教徒)によって主導された[25]

中世の日本では、いわゆる「倭寇」の活動や、琉球人たちの貿易活動などを通して[26]東南アジアへの知見を得るようになるが、これによって東南アジアも「天竺」と呼ばれる地域に含まれることとなった。日本の室町時代に活動した商人の楠葉西忍は、1374年に来日した「天竺人」の「ヒジリ」と日本人女性の間に生まれた子であるが[27][25]、この「天竺」もインドを指すとは限らず、インド人とする説のほかにアラビア人・ペルシア人・マレー人・琉球人などの諸説がある[25]

16世紀半ば、インドに拠点を築いたヨーロッパ人が日本に到来した。


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