天神川
五条通付近
水系一級水系 淀川
種別一級河川
延長13 km
平均流量-- m³/s
流域面積25 km²
水源沢山(京都市右京区)
水源の標高515.8 m
河口・合流先桂川(京都市南区)
流域京都府京都市
テンプレートを表示
北野天満宮境内(もみじ苑)にて
天神川(てんじんがわ)は、京都府京都市を流れる淀川水系の一級河川。現在は上流部が紙屋川とも呼ばれるが、江戸時代までは紙屋川の名が一般的であった。古くは西堀河と称した。
「天神川」の名は、中流で北野天満宮の西を流れていることによる。なお、その北野天満宮と接する付近に御土居が残る。
また、四条?西京極橋の左岸にはソメイヨシノの桜並木が延々と続き、開花シーズンになれば壮麗な眺めになり、桜の名所の一つとして市民に親しまれている。 京都市右京区鳴滝の沢山(標高515.8m)東麓に発し、一旦北流。北区鷹峯台地を囲むように東へ出た後は概ね南流、京都市街の衣笠・北野を潤す。北野天満宮の西方を流れ、しばらくのあいだ西大路通の東側100mあたりを並行して南進する。花園付近(円町駅の南方)で西に寄って一級河川御室川を併せ、一級河川西高瀬川と交差。御室川合流から西京極まで天神川通(国道162号・京都市道184号宇多野吉祥院線)と並行してさらに南流し、南区吉祥院下ノ向町で一級河川桂川に注ぐ。 1935年(昭和10年)6月29日に発生した京都水害[1](「鴨川水害」とも呼ばれるが、浸水面積は天神川、桂川沿いのほうが広い)で天神川も氾濫。被災後、花園より南側は現在のように付け替えられた。 水害以前は天神川は丸太町通以南では天井川となって蛇行しながら西院から西京極の東側から吉祥院へと流れ、御室川は宇多川を合流部から天井川となって南下、途中西高瀬川と立体交差して西京極をへて西中付近で桂川へと注いでいた。それが京都水害で両河川とも沿川に甚大な被害が発生した。特に天神川沿川には人家が多く、河川の拡幅が困難なことから、御室川への付け替え、掘込河道化が決定したが着工されず紙屋川周辺住民が昭和13年9月に勤労奉仕で着工、昭和15年に本格着工したが戦時下で計画大部分は中断した。昭和26年7月の水害で丸太町通りとの交差部付近で決壊して西の京地区が浸水した。御室川では山陰本線下流の5ヶ所で決壊、沿岸の常盤・太秦地区が浸水した。さらに有栖川、瀬戸川が氾濫し、これらの氾濫は合流し東梅津から南へ山内・西院・西京極を水没させた。被害は床上浸水1473戸・床下浸水5177戸を出した。被災後に再度着工され昭和29-30年にかけての工事で御室川は石積み護岸のかみそり堤防となった。また昭和33年には支流の紙屋川に砂防堰堤が造られた[2]。 1953年に土砂災害防止のために砂防堰堤(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度2分37.6秒 東経135度44分7.5秒 / 北緯35.043778度 東経135.735417度 / 35.043778; 135.735417 (紙屋川砂防ダム) 2013年に46戸あった家は2022年までに18戸の解体が終わっている[7]。
地理
水害による河川付け替え
砂防ダム内に集落
流域の自治体
京都府
京都市右京区、北区、上京区、中京区、右京区、南区
主な橋梁
東西の道
天神川北大路橋(北大路通)
金閣寺橋 (鞍馬口通)
上野橋 (西方:廬山寺通、東方:寺之内通)