天社土御門神道
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天社土御門神道本庁設立1954年(昭和29年)1月11日
設立者土御門範忠
種類宗教法人
法的地位文部科学大臣所轄包括宗教法人
本部福井県大飯郡おおい町名田庄納田終129-9
会長藤田浩二 (庁長)
重要人物土御門範忠,藤田乾堂
ウェブサイトhttps://onmyodo.jp
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天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)、または土御門神道(つちみかどしんとう)、は、福井県大飯郡おおい町(旧名田庄村地区)に本庁を置く宗教団体。呼称については「土御門神道」で良いが、江戸時代に土御門家が「陰陽道宗家」として霊元天皇より賜った「天社宮」(てんしゃぐう)の宮号にある「天社」を冠して「天社土御門神道」とも呼ぶ。

安倍晴明を祖とする陰陽道宗家安倍氏土御門家が伝えてきた陰陽道を基幹としているが、中世には吉田神道の影響を受けている上に、江戸時代に神道家で儒家の山崎闇斎の提唱した垂加神道の思想を取り込んで「神道化」を果たした「天社神道(安家神道ら土御門神道)」であるため、厳密に言えば陰陽道そのものではない。現在は神道系団体である[注 1]また、現在の代表は土御門家の当主ではなく、土御門家の家政を司っていた家臣の家柄である藤田家が担っている。

最後の土御門家当主となった土御門範忠(1920?1994)逝去後は、最高位である「管長」は置いていない。マスコミ等の取材に対応する時も肩書はあくまでも「庁長」(天社土御門神道本庁長)あるいは「代表」としている。現在の最高責任者(法人代表)の肩書きは「庁長(代表)」となる。
成立に至る経緯

陰陽道のうち、特に天文道家学として確立した安倍氏は、室町時代に時の当主である安倍有世が、室町幕府第三代将軍 足利義満によって従二位という破格の待遇を得て公卿となり、以後は土御門家と称して朝廷と幕府に仕えた。応仁の乱で朝廷および幕府の中心機関があった京都が戦地になると、陰陽師らは混乱を避けるために地方の守護大名を頼って地方に下ったり、自らの領地に疎開する。

土御門家は朝廷より賜っていた「泰山府君祭永年祭料地」であった若狭国遠敷郡名田庄に疎開し、若狭武田氏などを頼った。応仁の乱および、同戦乱に誘発されて地方で散発的に戦乱が起き続けた結果、土御門家は有宣、有春有脩の三代および久脩の四人が当地に居住した。土御門有宣と有春はついに帰京が叶わず名田庄で逝去している(帰京が叶った有脩も遺骨は名田庄に納骨され、現在は史跡「安倍氏三卿墓所(土御門家三卿墓所)」となっている)。

一連の戦乱は土御門有脩の代に収束を迎え、息子である土御門久脩と共に帰京するが、焼け野原となった京都に往時の面影はなく、朝廷も廃れ焼失部も多く、陰陽寮は所蔵していた大量の道具や典籍を失った。陰陽寮設置以来伝えてきた「陰陽道」はこの時点で大部分を"失伝"した。

苦肉の策で土御門家は、当時の神道界を独占していた吉田家の唯一宗源神道(吉田神道)が取り込んでいた陰陽道由来の思想や技術を再収集した他、陰陽道は既に密教にも浸透していた事から、密教の修法からも陰陽道由来とおぼしき部分を抜き出して再構築を図った。

しかしながら、結局それだけでは陰陽道の"完全なる再興"は果たせず、吉田家に祭祀について問い合わせたり、祭儀につかう斎服を借りたいと申し出たが断られたという話が、当時の吉田家の日記に残っている。同日記には「久々に都で陰陽道祭儀が行われるので見物に行ったが、内容が(吉田神道と)同じだった」「陰陽道の霊場と聞いてやって来たが、草が生い茂り荒れ地に祭壇を設けていた」とも記され、「土御門は吉田より出る」とまで書かれてしまった。

この一件については様々な捉え方は出来るが、後に陰陽道が土御門神道へと変化する"最初の転機"は吉田神道と関わったこの時と見る事も出来よう。

それでもなお、陰陽寮(陰陽師)の主要三部門天文道暦道陰陽道はあくまで土御門家(安倍氏)および勘解由小路家 (賀茂氏)の専権事項であった為に、あくまでも「陰陽道」は独自の職掌として認識され、祭祀もまた「陰陽道祭祀」として確立させ続けた。

足利義昭織田信長によって京都から追放されて室町幕府が崩壊すると、貴族(公卿)でもあった陰陽師達は新たに台頭した戦国大名たちの要望に応えていく事に活路を見いだした。殊に土御門家は、当時もっとも大きな影響力を持っていた織田信長に接近し、信長もまた土御門家に目をかけた。その証拠に、前右大臣である信長の推挙によって土御門家は「公家成」を果たしている。これまでは土御門家当主が個人で位階昇進を果たしていたが(蔭位による)、信長による推挙によって、土御門家は明治に至るまでつづく正式な「公家」の一員となった。また信長の弟である織田信包の嫡子である織田信重の娘は久脩の子である土御門泰重の妻になっており、織田家と姻戚関係にもなっている。


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