天理教
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天理教の神名「天理王命」について、編集される前にノートをご確認ください。
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この項目では、日本の天理教について説明しています。中国で19世紀に発祥した天理教については「天理教 (中国)」をご覧ください。

天理教

国・地域 日本および東アジア
信者数約300万人?
成立年1838年 (186年前) (1838)
創始者中山みき
信仰対象天理王命
聖典「おふでさき
みかぐらうた
おさしづ
母体神仏習合
天道など
宗派#宗教法人天理教から分立・影響を受けた団体を参照
主な指導者真柱
聖地天理市(ぢば)
発祥地 江戸幕府大和国山辺郡西三昧田村
本拠地 日本 奈良県天理市
教義#教義・教理を参照
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天理教(てんりきょう)は、中山みき開祖とする日本発祥の宗教江戸時代後半に成立した宗教の一つ。かつては教派神道の一派とされていたが、本来は神道とは別の宗教であり、仏教の影響もみられる。一般的には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部および一般教会)を指すが、広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、その教義を信仰する単立の宗教法人もある。
概要

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出典検索?: "天理教" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2010年4月)
「ようこそおかえり」の標示天理本通りの自転車および歩行者専用標識
月次祭(全国から信者が集まる祭り)がある毎月26日とその前日は自転車の通行が禁止されている。1950年代に撮影された「天理教」のハッピ

「宗教法人天理教」およびその被包括法人である「宗教法人天理教教会本部(略して教会本部)」は奈良県天理市にあり、またその傘下にある一般教会は各地に点在する。

崇拝対象のの名称(神名)は天理王命(てんりおうのみこと)で「親神(おやがみ)」または敬称を付けて「親神様(おやがみさま)」とも呼称。天理教公式ホームページでは「親神天理王命」と紹介しており、人類創造神とされている。[1][2]なおまだ宗教として公認されておらず明確な教典も存在しなかった教祖存命時の神名は一定しておらず、「天輪王命」などの様々な名称で文献上表記されており、教会の公認後も天理教教典上「天理大神」が神名とされている時代もあった。[注釈 1]教会本部、各地の一般教会では、天理王命とともに教祖と御霊の社を置き礼拝しているが、一神教(一つの神のみを信仰する宗教)である。「陽気ぐらし」という人間がみんなで助け合う世界の実現を目指している。教祖は中山みき[注釈 2]。天理教では「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。明治20年(1887年)に、教祖・みきは90歳で死去したが、天理教では目に見える存在の「現身(うつしみ)を隠した」のであり、その魂は今でも「元の屋敷(現在の教会本部)」に留まっており、人々の暮らしを見守り守護しているとしている「教祖存命の理」が、天理教信仰の根本的な精神的支柱となっている[6][7][8]。現在の統理者は真柱(しんばしら)・中山善司。次期後継者は中山大亮

天理教では、人間のの発祥地の中心を「ぢば」(地場)と称し、1875年(明治8年)6月29日(陰暦5月26日)に教祖の「ぢばさだめ」という啓示でその場所を定めている。2代真柱の中山正善によれば「ぢば」という言葉には特別に意味は無く、教祖はあくまで「場所」という日本語のニュアンスで使用していた。その後の教勢の発達と時間的な経過とともに「ぢば」は天理教義的な観点から「人間の宿し込みの地点」と意味が明示され、場所という視座ではその証拠として据えられている「かんろだい」のある特定の地点と定義されるようになったとされる[9][7]。この「ぢば」は「元なるぢば」「かんろだいのぢば」の意味もあり、天理教の信仰の対象であり、中心であるとされている[注釈 3]ため、明治8年のぢばさだめから数度の大規模な増築を重ねた現在に至るまで、まったく変わらぬ位置にある。このようなぢばの意義は「ぢばの理」と呼ばれている。天理教教会本部は、この「ぢば」を中心に建られており、神殿の四方に建てられたすべての建物を「かんろだい」の礼拝所とし、全国大多数の各教会の神殿も「ぢば」の方向にむけて建てられている[10]。通常は、丁寧語の「お」をつけて「おぢば」と呼び、人がこの地を訪れることは、故郷に帰ることであるから、「おぢばがえり」と呼んでいる。そのため天理駅や天理市内の関係者の宿泊施設である信者詰所などには「お帰りなさい」や「ようこそおかえり」などという看板が見られる。天理教教会本部南礼拝場と教祖殿をつなぐ回廊

天理教教会本部の最も中心である「神殿」は階段を上ったいわゆる二階部分に相当し、さらにその中央部は一般信者や参拝者が立ち入る事のできないよう結界が設けられ、祭典時に祭主が祭文を奏上したり、手おどり、毎朝夕のつとめが行われる一段高い木製の「神床」がある。神床の東西南北には「真座」へ降りる階段が設けられ、中心(ぢば)に人間創造をあらわす六角形の「甘露台」(かんろだい:木製、高さ約2.5m)[11]が据えられている。真座の四周約6間四方は床はなく、純白の玉砂利が敷き詰められている。さらに甘露台の四周約1間四方は花崗岩の延石で区切られ、その中には直径約5?6cmの丸くて平らな那智黒の石が敷き詰められ中央に甘露台が鎮座する。神床の結界外は信者・参拝者が礼拝する畳敷きの広大な四つの「礼拝場」(らいはいじょう:北礼拝場・南礼拝場・東礼拝場・西礼拝場、合わせて3157畳)があるが、真座は地面(いわゆる一階部分)であるため、礼拝場からは甘露台の上部が見えるのみで真座の全景を見ることはできない。なお神殿の屋根は甘露台の上部一間四方がぽっかりと開けられているため、雨天時は甘露台に直接雨が降り注ぐ。

そのほか教会本部には、教祖が存命のまま暮らしているとされる「教祖殿」(きょうそでん)、御霊を祀る「祖霊殿」(それいでん)などがあり、信仰に関係なく誰もが自由に出入りすることができ、南礼拝場は24時間開かれている[12]。「神殿」では、毎日朝晩に「おつとめ」という定時定例の礼拝が行われており、また毎月26日は、「月次祭」(つきなみさい)という祭典が行われる。傘下にある一般教会などにおいてもその例に倣い、「親神」「教祖」「御霊」を祀る御社を設置し、「おつとめ」や「月次祭」が行われている[注釈 4]

「おつとめ」の「お」は丁寧語としてつけられたもので、天理教での公式な呼称は「つとめ」であり、その定義や種類は複数存在する。特にこの朝晩におこなう「つとめ」は「朝づとめ・夕づとめ」「朝夕のつとめ」などと呼ばれ、礼拝する際には、信者は「あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと」などと唱え、そこに定まった手振りを加え、主神の親神天理王命に感謝したり祈りをささげている[13][注釈 5]

かつて教派神道の一派として公認され活動していた(詳細は後述)ため、葬儀式などに見られるように神道の影響を大きく受けており、現在も「神道系宗教」とみなされることが多いが、教団側では新宗教諸派と称しており、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされている。文化庁の宗教年鑑では「諸教の諸教団」として分類されている[14]

教祖である中山みきが、民衆にも分かりやすく説きたいとの意思から、『おふでさき』『みかぐらうた』が仮名で書かれている。教義などに使われる言葉の多くが「かな表記」にされている[注釈 6]

基本的に信者達は、ハッピを平服の上から着用する。


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