天王星の環
[Wikipedia|▼Menu]
ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡2023年に近赤外線カメラで撮影した天王星と環。雲と極冠、ζ環が確認できる天王星の環の概略。実線は環、破線は衛星を表す。

天王星(てんのうせいのわ、Rings of Uranus)は、非常に複雑な土星の環と比較的単純な木星の環及び海王星の環の中間程度の規模の環である。1977年3月10日ジェームズ・L・エリオット、エドワード・W・ダナム、ダグラス・J・ミンクの3人が発見したが、その200年近く前の1789年ウィリアム・ハーシェルも環を観測したことを報告している。しかし、天王星の輪は非常に暗くて希薄なため、彼が観測可能であったか疑問視する近代の天文学者もいる[1]

1978年までに、9つの環が確認された。1986年には、ボイジャー2号の写真から、さらに2つの環が発見された。2003年から2005年には、ハッブル宇宙望遠鏡の写真から、さらに外側に2つの環が発見された。天王星からの距離が遠ざかる順に、13の既知の環に、1986U2R/ζ、6、5、4、α、β、η、γ、δ、λ、ε、ν、μという名前が付けられている。その半径は、1986U2R/ζで約3万8,000 km、μで約9万8,000 kmである。さらに、希薄な塵の帯と不完全なアークが主環の間に存在する。この環は非常に暗く、環の粒子のボンドアルベドは2%を超えない。恐らく水の氷に放射線で作られた暗い有機化合物が混ざっている。

天王星の環の大部分は、不透明であり、幅はわずか数kmである。環全体に塵の量は少なく、ほとんどは直径0.2から20 mの大きな粒子である。塵の量が少ないのは、天王星の外気圏に引っ張られるためである。

天王星の環は比較的若く、6億歳を超えないと考えられる。天王星の環は、恐らくかつて天王星の周りにあった天王星の衛星が衝突によって砕けた破片からできていると考えられている。衝突後、衛星は無数の破片に分かれ、最も安定な軌道に密集して公転しているものと考えられている。

狭い環を形成する詳細な機構はまだよく分かっていない。当初は、全ての狭い環は1対の羊飼い衛星を伴ってその形を保っていると考えられた。しかし、1986年にボイジャー2号が発見したそのような羊飼い衛星は、最も明るい環(ε)の周囲のわずか1対(コーディリアオフィーリア)のみであった。
発見
発見前史

天王星の環の存在に最初に言及したのは、18世紀に天王星を詳細に観察したウィリアム・ハーシェルで、その観察記録には、「1789年2月22日: 環が存在する疑いがある」という記述が含まれていた[1]。ハーシェルは、環の小さな略図も描き、「少し赤みがかっていた」とも記している。ハワイのケック天文台は、少なくともν環ではこのようなケースもあり得たことを確認している[2]。ハーシェルの記述は、1797年に王立協会から出版されたが、1797年から1977年までの2世紀にかけては、環についての言及はほぼなかった。同時代の数多くの他の天文学者が全く見えなかったのにハーシェルにだけ何かが見えたのか否かについては、疑いもあるが、ハーシェルは、天王星が太陽系の周りを公転するにつれて変化し得る天王星に対するν環の大きさや色も正確に記述していたという主張もある[3]

発見以前に、環の存在を予想した者が2人いた。ジュディー・ボイントンとビブハス・R・デーである。しかし、理論が不正確だったため、(発見前も発見後も)重視されなかった[4]
掩蔽による発見

天王星の環は、土星の環についで2番目にその存在が確証された[5]

1977年3月10日、恒星SAO 158687の天王星による掩蔽の観測により、偶然発見された。ジェームズ・L・エリオット、エドワード・W・ダナム、ダグラス・J・ミンクは、インド洋上空のカイパー空中天文台 (KAO) で、天王星の大気の研究をするために掩蔽を観測したが、予報誤差に備えて予報時刻の前から観測を開始していたため、天王星本体による掩蔽の前後に5回ずつ、恒星の短時間の減光が観測された。当時、細い環というものはどの惑星にも発見されていなかったため想定されておらず、翌朝の記者会見などでは直径30から40 kmの衛星(実際の環の幅より大きい)100個以上からなる「衛星帯 (satellite belt)」と発表されたが[6]、衛星だとすると全ての減光が100%でないので接食(恒星が衛星の端をかすめ部分的に隠れる)となり不自然なこと、掩蔽の前後で減光のグラフがほとんど同じ波形を描いていたことなどから、のちの回報や論文では狭い環とされた[7][8]。彼らが観測した5本の環は、回報や論文の中で、ギリシア文字を使って、内側からα・β・γ・δ・εと名付けられた[7]。この符号は、それ以来、環の名前としても使われている。

この掩蔽は、7ヶ所の8グループが観測していた[9]。ただし、狭い環という結論に独自に達したのはエリオットらだけだった[9]パース郊外ビクリーのパース天文台では、ロバート・バロウらが5回の減光を観測した。それらは論文で内側から5・4・3・2・1と仮称されたが、KAOの5回とはそのうち2回が異なり、5・4・α・β(3)・γ(2)・δ・ε(1)の合計7回の減光があったと判明した。パースでαとδが観測されなかったのは、ちょうどその時間、望遠鏡のガイドエラーチェックのため観測を休止していたためである[10]。一方5と4に関しては、KAOのデータではαの内側に小さな減光がいくつかあったものパースのデータとはあまり一致せず、環かどうかはまだはっきりしなかった[10]

また同年夏、KAOとパースのデータを再検討した結果、βとγの間に薄くて広い環が見つかり、エリオットらによりηと名づけられた[10](追加で見つかった環のギリシャ文字は連続していない)。

1978年4月10日にも、天王星による恒星の掩蔽が観測された。その結果、α・β・η・γ・δ・εの6本の環が確認され、さらに、αの内側に3本の環が発見され[11]、エリオットらにより内側から6・5・4と命名された(5と4はは1977年のパースの減光5と4に一致したためそれがそのまま環の名称となった[12])。なお、1977年のKAOのデータが一致しなかったのは、計算ミスだと判明した[13]
さらなる発見

1986年にボイジャー2号が天王星を通り過ぎる際、天王星の環の直接撮影が行われた[14]。2つの希薄な環がさらに発見され、環の数は合計で11になった[14]。ハッブル宇宙望遠鏡は、2003年から2005年にさらに2つの環を発見し、これで合計は13になった。これらの外側の環の発見により、既知の環の半径は2倍になった[15]

ハッブル宇宙望遠鏡は、初めて天王星の周りに小さな2つの衛星を発見し、そのうちの1つマブは、新しく発見された最も外側の環と軌道を共有していた[16]
一般的な性質天王星の内側の環。明るい外側の環はε環で、その他8つの環が見える。

現在、天王星の環は13本から成り立っていることが知られており、天王星からの距離が遠ざかる順に、1986U2R/ζ、6、5、4、α、β、η、γ、δ、λ、ε、ν、μと呼ばれている[15]。これらは3つのグループに分類され、9つの狭い主環(6、5、4、α、β、η、γ、δ、ε)[5]、2つの塵の環(1986U2R/ζ、λ)[17]、2つの外側の環(μ、ν)[15][18] に分けられる。天王星の環は、主に微小粒子で構成され、塵はほとんど含まれないが[19]、1986U2R/ζ、η、δ、λ、μ、νには塵が存在することが知られている[15][17]。これらの良く知られた環の他に、無数の薄い塵の帯や薄い環が存在する[20]。これらは、一時的に存在するか、部分的ないくつかのアークから成り立っており、掩蔽の際に時々検出される[20]。2007年の環平面横断の際にもそのいくつかを見ることが出来た[21]。環の間に存在する多くの塵の帯は、ボイジャー2号による前方散乱の観測でも見られた[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef