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出典検索?: "天満" 大阪市
この項目では、大阪市の地名について説明しています。菅原道真を祭神とする神社については「天満宮」を、その他の天満については「天満」をご覧ください。
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天満
町丁
南天満公園と旧淀川
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度41分37.11秒 東経135度31分9.44秒 / 北緯34.6936417度 東経135.5192889度 / 34.6936417; 135.5192889
国 日本
都道府県 大阪府
市町村 大阪市
区北区
面積[1]
? 合計0.462804631 km2
人口(2019年(平成31年)3月31日現在)[2]
? 合計6,605人
? 密度14,000人/km2
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号530-0043[3]
市外局番06(大阪MA)[4]
ナンバープレートなにわ
天満(てんま)は、大阪府大阪市北区の地域名。または同地域南東部の町名。明治時代の古地図によると北區(きたく)東天満、西天満 現行行政地名は天満各町にあたる 旧淀川(大川)が曲流する北西側の地域を指し、現在の町名では天満、東天満、紅梅町、松ケ枝町、天満橋、同心、与力町、天神橋、末広町、南森町、天神西町、菅原町、西天満、南扇町などに当たる。 天満の地名は当地に鎮座する大阪天満宮の転訛による。日本三大祭の一つに数えられる天神祭、南端の大川に架かる浪華三大橋(天満橋・天神橋・難波橋)で知られる。 大川を挟んで上町台地の北に位置する天満は、天満砂堆と呼ばれる微高地の南端に当たり、淀川が氾濫しても水没を免れる平地として古い歴史をもっている。現在は大阪天満宮の摂社となっている大将軍社は、652年(白雉3年)に遷都された難波長柄豊碕宮の鎮護社として創建された神社である。901年(延喜元年)に菅原道真が大将軍社を参拝し、のちに天満宮となった。 石山合戦の後、貝塚本願寺へ逃れていた顕如を豊臣秀吉が天満川崎へ呼び戻し、1585年(天正13年)に天満本願寺を建立した。このように天満は元は寺内町ということになるが、2年前の1583年(天正11年)に始まった大坂城下の整備とほぼ同時進行で行われた。秀吉は天満を船運の拠点にしようと考えており、1598年(慶長3年)には天満堀川が開削されている。また、のちに船場へ移り、さらに雑喉場・靱といった下船場へ移った生魚商・塩干魚商らも、もとは天満に居住していた。 大坂の陣の後、松平忠明による復興の際には、北の防御線として天満北縁の西成郡川崎村および北野村に天満寺町が形成された。天満堀川を境に天満東寺町・天満西寺町とも呼ばれる。1619年(元和5年)頃まで天満は大坂とは別の町と見なされており、大坂編入後も町人地はしばらく北組・南組の二分だった。やがて上町や島之内を凌駕するほどの商業と人口の集積が見られるようになったことから天満組が成立し、以後大坂の町人地は大坂三郷と呼ばれるようになった。天満組の成立年代は不詳であるが、1629年(寛永6年)には惣会所が設置されている。大川西岸付近の東部には川崎東照宮や津藩・桑名藩・岸和田藩などの蔵屋敷が立地し、天満東寺町付近から天満の北縁および東縁一帯にかけて大坂町奉行の与力・同心屋敷も置かれた。 1653年(承応2年)、京橋片原町から天満の淀川沿岸に青物市場が移転し「天満青物市場」が誕生した。この市場は西成郡難波村など城下南郊の近郊農村が開設しようとした市場や新興の堀江にできた市場などから挑戦を受けるものの、長年大坂の青果取引を独占する官許市場として繁栄し、周囲には野菜などに関わる商家が多く集まった。天満堀川沿いは造り酒屋や乾物問屋などが軒を連ねた。 1684年(貞享元年)には淀川水系の河川改修に伴って天満1丁目・臼屋町・天満2丁目の大川沿岸が収公されたため、代替地として西成郡三軒家村の北東端に船津町・臼井町・川本町の3町が置かれた(現:大正区三軒家東1丁目)。
地理
河川
旧淀川(大川)
歴史