天津事件
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この項目では、1939年の日本とイギリスの間の外交事件について説明しています。1931年に日本が満州国皇帝に溥儀を据えようとした事件については「天津事件(1931年)」をご覧ください。

天津事件
日中戦争

1939年天津のイギリス・フランス租界付近で日本軍が設置した鉄条網(手前)とイギリス兵(奥)。

時1939年1月14日 ? 1939年8月20日
場所中華民国 天津
結果妥協による解決

衝突した勢力
イギリス 日本
1939年夏、天津のイギリス、フランス租界の周辺に日本軍が設置した障害物

天津事件(てんしんじけん)は大日本帝国陸軍北支那方面軍華北天津条約港にある租界封鎖したことにより生じた国際事件である。小さな行政的論争が発端となり、大きな外交事件にまで発展した。
背景

1931年の満州事変以来、日本は中国全土を日本の勢力圏下に置くという究極目的の下、中国の独立を妨げようとする政策をとった。イギリスと中国の関係は、1930年代中頃までは特に良好でも親密でもなかったが、日本の台頭がロンドンと南京の関係改善を促進した。イギリスの歴史家Victor Rothwell はこう書いている:「1930年代中頃に、もし中国に西洋の友人があったとするなら、それはイギリスであった。1935 - 1936年にイギリスは中国に資金面で本当の援助を与えたし、華北を侵食する日本に対して本当の関心を寄せた。日本のこうした活動を緩和させられる唯一の望みは英米共同戦線にあることを認識し、英国はそれを何度も米国に提案したが、常に拒絶された。」[1] すると、改善された英中関係が、今度は日英関係を緊張させた。

1937年7月30日、天津は日中戦争の軍事作戦の一環として日本に占領されたが、1941年までの日本は外国の天津租界に対しては手出しせず治外法権を尊重し続けていたため、完全に天津が占領されたわけではなかった。1937年12月、日本は中国の商都である上海を占領した。中国政府の全収入の85%が上海からのものであったため、これは蒋介石大元帥の政府にとっては大きな痛手であった[2]。上海失陥後、日本に抵抗し続けるための中国の経済力は非常に疑わしいものとなった。日本軍の中国での一連の勝利を受けて、日本の公爵近衛文麿首相は、1938年1月初旬、中国を事実上の保護国に変えることになるであろう全面的な「交渉の余地のない」戦争目的を発表した[3]。1937年7月の戦争の開始以来、日本は旧都北平を含む華北の大部分を占領し、揚子江では上海、そして中国の首都南京を占領した。

一連の勝利の後、近衛首相は戦争に勝利したとみなした。近衛は日中平和の理想的な基盤として満州国の地位について話した。時には、近衛はさらに進んで、1905年に日本が韓国に対して行った保護領化と、その後に続く1910年の韓国併合を、平和の理想的な基盤として言及した。新しい日中関係のモデルが満州国であれ朝鮮であれ、戦争が日本の満足する形で終わるためには、中国人は日本に従属する立場を受け入れなければならないという意図を近衛は全く隠しもしなかった。

近衛の示した和平条件は非常に極端で峻烈なものだったため、日本の軍部でさえ、この条件では蒋介石が決して和平を受け入れないという理由で反対した[3]。ドイツは日中両国と友好関係にあり、どちらかを選択したくないため、ドイツのコンスタンティン・フォン・ノイラート外相は、中国と日本とドイツの間の妥協和平を調停しようとしていたが、近衛の和平条件を見て、これはただ蒋介石に拒絶させるために、意図的に法外で屈辱的な要求をしているように思えると不満を述べた[3]。近衛の主な要求は、中国が満州国を承認することと、防共協定に署名すること、日本軍将校に中国の国民革命軍の指揮権を認めること、日本軍が占領した中国の全地域において無期限の日本軍駐留を認めること、日本に賠償金を支払うことであった[4]。中国は、日本が引き起こした戦争の全費用の支払いばかりでなく、中国人が日本の力に挑戦しようとした愚かさを反省するように罰金も支払うことまで要求された。

近衛は、日本が蒋介石の政府を破壊して完全勝利を収めることで戦争を終結させるという極端な意図を持つ戦争を選択し、外交上の妥協を目指すためのあらゆる努力を意図的に妨害した[3]。近衛の演説により、日本はその「交渉の余地のない」戦争目的を達しない限り敗北とみなされるような状況を自ら作ってしまった。蒋介石は演説で、近衛の戦争目的は平和を作るための基礎とはならないと、直ちに拒否したため、日本が近衛の計画を履行させるためには、日本は中国で決定的な勝利を収めるしかなくなる。それが一貫して近衛の意図であった[5]。1938年1月16日、近衛は計画達成への「不変の」公約をもう一度発表し、蒋介石が和平条件を拒否したため、日本政府は蒋介石の政府の打倒を公約とすると発表した(第一次近衛声明[6]

1938年1月18日、近衛は別の演説を行い、日本が蒋介石の政府を地球上から「根絶」するという彼の真の目標を達するために、到底受け入れられないような和平条件を要求したことを率直に認めた[7]。日本は蒋介石が率いる中国政府とは決して和解しないこととしたため、妥協による和平はもはや不可能になり、したがって日本は中国に対して完全勝利するしかなくなった[6]。中国政府が中国奥地へ後退すると、日本陸軍に兵站上の大問題が突き付けられた。日本陸軍は、近衛の計画が求める「完全勝利」を勝ち取るために必要な、中国奥地への戦力投射能力を持ち合わせてはいなかった。

中国のように広大な国を更に征服しようとすることの兵站上の問題を、近衛よりもはるかによく理解していた日本軍は、まさにその兵站上の理由を挙げて近衛の計画に反対した。近衛声明は、中国に対する完全勝利を公約としているが、それを達成する力を日本は持たない。しかし、近衛の計画を達成できないならば、それは日本の敗北にみえてしまう[5]。1938年7月、日本は武漢を占領して最終的な勝利を得るための攻勢を開始した[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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