天武天皇
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天武天皇
『集古十種』より「天武帝御影」
矢田山金剛寺
第40代天皇
在位期間
673年3月20日 - 686年10月1日
天武天皇2年2月27日 - 朱鳥元年9月9日
元号朱鳥
時代飛鳥時代
先代弘文天皇
次代持統天皇

崩御686年10月1日
大和国
陵所檜隈大内陵
漢風諡号天武天皇
和風諡号天渟中原瀛真人天皇
諱大海人(おおあま)
別称浄御原天皇
父親舒明天皇
母親宝皇女(皇極天皇/斉明天皇
皇后?野讃良皇女(持統天皇
夫人藤原氷上娘
藤原五百重娘
蘇我大?娘
子女草壁皇子
高市皇子
大津皇子
舎人親王
皇居飛鳥浄御原宮
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天皇系図38?50代

天武天皇(てんむてんのう、? - 686年10月1日朱鳥元年9月9日〉)は、日本の第40代天皇(在位:673年3月20日〈天武天皇2年2月27日〉- 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)。

は大海人(おおあま)。和風諡号は天渟中原瀛真人天皇。壬申の乱に勝利して即位した。
概要

舒明天皇皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれた。中大兄皇子間人皇女にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の?野讃良皇女は後に持統天皇となった。

天智天皇の崩御後、672年壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される[1]。文化的には白鳳文化の時代である。

天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘(せいちゅう)されず、専制君主として君臨した。八色の姓氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、崩御後に完成した事業である。

道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる。

名の「大海人」(おおあま)は、幼少期に養育を受けた凡海氏海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことをしたことからこのように推測されている[2]

和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る二つは蓬莱方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である[3][4]

漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代淡海三船によって撰進された。近代に森?外は『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、前漢武帝になぞらえたものとする説[5]、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。
生涯
出生

天武天皇の出生年について『日本書紀』には記載がないが、天皇の生年を不明にするのは同書で珍しいことではない。前後の天皇では、推古天皇につき死亡時の年齢を記したこと、天智天皇につき舒明天皇13年(641年)時点での年齢を記したことが、むしろ例外的である[6]

天皇の年齢を詳しく載せるのは、中世になって成立した年代記・系図類である[7]鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』が記す没年65歳から計算すると、生年は推古天皇30年(622年)か31年(623年)となる。これは天智天皇の生年である推古天皇34年(626年)の前である。これについては、65歳は56歳の写し間違いで、舒明天皇3年(631年)生まれだとする説が古く行なわれてきた[8]

1974年作家佐々克明がこの違いを捉え、天武天皇は天智天皇より年上であり、『日本書紀』が兄弟としたのは事実を隠したものであろうとする説を唱えた。ここから主に在野の歴史研究家の間で様々な異説が生まれ、活発な議論が交わされた。佐々は天武天皇の正体を新羅皇族金多遂としたが、小林惠子は漢皇子とする説を提起し、年齢逆転を唱える作家の間ではこれが有力なものとなっている[9]。漢皇子は皇極天皇舒明天皇と再婚する前に高向王用明天皇の孫)との間に設けた子で、天智天皇の異父兄である。

しかし、『一代要記』などは天智天皇の年齢も記しており、そこでは天智天皇は天武天皇より年上である。中世史料内部で比較すれば天智・天武の兄弟関係は揺らがないのであって、年齢逆転は、『日本書紀』の天智生年と、中世史料から天武生年だけを取り出して比較したときに起きる。このような操作を通じて得た矛盾によって、父母を同じくする弟と明記する『日本書紀』を覆すことに、坂本太郎ら歴史学者は総じて否定的である[10]。しかし論争の中では数字をひっくり返してつじつまを合わせる史料操作も批判され、56歳没説も支持されなくなった[11]。結局、天武天皇の生年は不明ということになる。

諸史料が示す天智・天武の生年と事件時年齢(数え年)史料天智天皇の生年天武天皇の生年乙巳の変天智没
日本書紀推古天皇34年(626年)不明天智20 天武 --天智46 天武--
(天武56歳没説)推古天皇34年(626年)舒明天皇3年(631年)天智20 天武 15天智46 天武41
一代要記推古天皇27年(619年)推古天皇30年(622年)天智27 天武24天智53 天武50
仁寿鏡推古天皇22年(614年)不明天智32 天武--天智58 天武 --
興福寺略年代記舒明天皇3年(631年)舒明天皇12年(640年)天智15 天武6天智41 天武32
神皇正統記・如是院年代記推古天皇22年(614年)推古天皇22年(614年)天智32 天武32天智58 天武58
神皇正統録・本朝皇胤紹運録推古天皇22年(614年)推古天皇30年(622年)天智32 天武24天智58 天武50
皇年代略記推古天皇22年(614年)推古天皇31年(623年)天智32 天武23天智58 天武49

斉明天皇の崩御まで

中大兄皇子が皇極天皇4年(645年)6月12日に20歳で乙巳の変を起こしたとき、大海人皇子は年少であり、おそらく陰謀には関わらなかった[12]。事件の結果、皇極天皇は退位して皇祖母尊(すめみおやのみこと)となり孝徳天皇が即位した。同母姉の間人皇女が皇后となり、大海人皇子は皇弟(すめいろど)と呼ばれた[13]。後、白雉4年(653年)に中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち難波京から倭(やまと)に移ったとき、皇祖母尊・皇后・皇弟らは行動をともにした[14]。やがて孝徳天皇は病で崩じ、皇祖母尊が斉明天皇として再び天皇になった。

大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。百済復興のための朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子が筑紫(九州)に宮を移したときには、大海人皇子も妻を連れて従った[15]。旅の途中、斉明天皇7年(661年)1月8日に妻の大田皇女が大伯海[16]大伯皇女を生み、大津皇子の名も筑紫の娜大津[17] での出生に由来すると言われる。大海人皇子は額田王を妻として十市皇女を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。この三角関係が後の兄弟の不和の原因となったとする説があり、賛否両論がある。
天智天皇の大皇弟

母の斉明天皇が亡くなってから、中大兄皇子は即位せずに称制で統治した。天智天皇3年(664年)2月9日に、大海人皇子は中大兄皇子の命を受け、冠位二十六階制を敷き、氏上を認定し、民部と家部を定めることを群臣に宣べ伝えた。

天智天皇6年(667年)2月27日にようやく斉明天皇の葬儀があり、間人皇女が斉明天皇と合葬になり、大田皇女がその陵の前に葬られた。それぞれ、大海人にとっては母、姉(または妹)、妻にあたる人たちであった。

7年(668年)1月7日に、中大兄皇子が即位した。このとき大海人皇子が東宮になった。このことは『日本書紀』で巻28、天武天皇の即位前紀に記され、巻27の天智天皇紀には触れられていない。天智天皇紀で大海人皇子は大皇弟[18]、東宮太皇弟[19]、東宮[20] などと記される。書紀は壬申の乱の挙兵前から大海人皇子を「天皇」と記し、天武の地位について信頼を置けないところがある。そのため、書紀が書く通り大海人皇子が皇太子であったとする学者もいるが、大皇弟などは壬申の乱での天武天皇の行動を正当化するための文飾で、事実はそのような地位になかったとする説[21]、大皇弟などは単なる尊称であって皇位継承予定者を意味するものではないなど[22]、疑う説も有力である。皇位継承者と認定されていたかはともかく、大海人皇子が非常に重要な地位にあったことは認められている[23]

藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。藤原鎌足が取りなして事なきを得たという。天智天皇7年(668年)のことと推測される[24]

天智天皇10年(671年)1月2日、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命し、左大臣右大臣御史大夫を付けた。太政大臣は国政を総覧する官職で、その職務は大海人皇子が果たしてきた仕事と重なる。『日本書紀』にはこの直後に東宮太皇弟が冠位・法度のことを施行させたと記すが、「或本に云わく」として大友皇子がしたとも注記する。また、『懐風藻』によれば大友皇子が太政大臣になったのは5年前になる[25]。多くの歴史学者は書紀の或本のほうを採るか、この記事を天智天皇3年(664年)2月9日の冠位26階制の重出と見る[26]。ともかくも、大海人皇子は朝廷から全く疎外されたようである[27]。天智天皇に、大友皇子をして皇位を継がせる意図があったためと言われる[28]
壬申の乱

天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、皇后である倭姫王が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[29]

吉野では?野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人女孺とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が崩御すると、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[30])朝廷を主宰して後継に立った。

翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海(尾張など)に遣わした。

大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
天皇の治世

天武天皇は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで岡本宮(飛鳥岡本宮)に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。2つをあわせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。

天武天皇2年(673年)2月27日に即位した天皇は、?野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。天皇は伊勢神宮大来皇女斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。


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