天正遣欧少年使節
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1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画。タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている[1]。京都大学図書館蔵。

右上・伊東、右下・千々石、左上・中浦、左下・。中央・メスキータ神父[1][2]

天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、1582年天正10年)にキリシタン大名である大友義鎮(宗麟)・大村純忠有馬晴信らの名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。イエズス会アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した。豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。
目的

ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。

第一は
ローマ教皇スペインポルトガル日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。

第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたいということであった。

研究者の伊川健二は、ヴァリニャーノを正使とした使節団がインドゴアを中心に、日本からヨーロッパへの橋渡しをしたことを主張している。また彼らは、ヨーロッパへ渡りはじめて帰国した日本人とされる。渡欧し、現地に残ったものは、1555年のベルナルドなどが確認されている。
天正遣欧使節記

『天正遣欧使節記』または『遣欧使節対話録』として4名の少年達の生きた声として引用されているのが『デ・サンデ天正遣欧使節記』[3]だが、これは日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことからフィクションとされている[4]。歴史学で使われる一次資料には大名または使節からの書簡[5][6]、各国使節の報告書簡[7]、会議録、会計帳簿等があり、これらを集めて分析した歴史学者の記録とは厳密に区別されており、『デ・サンデ天正遣欧使節記』に記述された少年たちの対話録や目撃証言は巡察師ヴァリニャーノが伝えようとした虚構と考えられている[4][注釈 1]
使節団の構成

使節の少年たちは有馬晴信日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13 - 14歳であった。1568年2月生まれ(14歳)の中浦ジュリアンが最年長で、他の3人の生年は不明だが原マルティノが最年少と言われる。伊東マンショグレゴリウス13世の謁見の場面

使節

伊東マンショ(主席正使) - 大友義鎮(宗麟)の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。

千々石ミゲル(正使) - 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教

中浦ジュリアン(副使) - 後年、司祭に叙階。1568年2月8日ころ(永禄11年正月)に肥前国中浦城主小佐々純吉の息子・小佐々甚吾として生誕。1633年長崎穴吊るしの刑により殉教2008年ローマ教皇により福者に列せられる。

原マルチノ(副使) - 後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。


随員

ジョルジェ・ロヨラ修道士 - 使節の教育係、日本人

コンスタンチノ・ドラード - 印刷技術習得要員、日本人少年

アグスチーノ - 印刷技術習得要員、日本人少年

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 - ローマへ随行するつもりだったが、職務によってゴアにとどまる。

ヌーノ・ロドリゲス神父 - ヴァリニャーノの後を継いで一行に従う。

ディオゴ・デ・メスキータ神父 - 通訳、イエズス会員

ロレンソ・メシア神父

オリヴィエーロ修道士


主な寄港地・宿泊地body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}
マカオ

マラッカ

コチン (インド)

サンタ・エレーナ (セントヘレナ島)

リスボン

グアダルーペ (これよりスペイン)

トレド

マドリード

ベルモンテ

ムルシア

アリカンテ

マヨルカ島

ピサ (これよりイタリア)

フィレンツェ

シエナ

ローマ

ボローニャ

ヴェネツィア

フェラーラ

ミラノ

ジェノバ

バルセロナ (これよりスペイン)

モンセラート

サラゴサ

マドリード

コインブラ (これよりポルトガル)

シントラ

リスボン

モザンビーク島

ゴア (インド)

マラッカ

マカオ

関係年譜1500年頃のリスボンを描いた絵画1500年頃のシニョリーア広場を描いた1650年の絵画

1582年天正10年)

2月20日旧暦1月28日) - 長崎港を出港。

3月9日(天正10年旧暦2月15日) - マカオ着。風を待つ。


1583年12月20日(天正11年旧暦11月7日) - マラッカコチンをへてゴア着。

1584年(天正12年)

8月10日旧暦7月5日) - ポルトガルの首都リスボンに到着。サン・ロッケ教会が宿舎となる。リスボン近郊シントラアルベルト・アウストリア枢機卿フェリペ2世の妹マリア神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の男子)の王宮に招かれる。


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