この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年10月)
天文道(てんもんどう)とは、天文現象の異常(天文異変/天変現象)を観測・記録し、その地上への影響について研究する古代の学問。陰陽寮で教えられていたものの一つ。今日で言う天文学に相当するが、内容的には占星術の色合いが強く、科学とは程遠いものであった。 そもそも、「天文」とは、天に現れた変化を記録することを指し、天文現象に合理的な規則性を求める科学としての天文学の日本における成立は江戸時代の西洋天文学の伝来以後である。このため、両者の違いを知る天文学者の中には明治時代に英語やドイツ語にあった"Astronomy"を翻訳して星学など「天文(学/道)」に代わる用語を作ろうとした経緯がある。 むしろ、暦道の方が天文学でいう、暦算天文学・位置天文学の系統に近いものがあったとされている。 天文異変とは、普段では見られない天文現象の事を指す。例えば、日食や月食、流星や彗星の出現、月と星の(見かけ上の)異常接近、惑星同士の(見かけ上の)異常接近、赤気 これらの現象は地上にある国家やその支配者(国王・皇帝・天皇)に重大な影響を与えると考えられてきた。そのため、予測可能な現象は予報を出してこの日に国家行事などを行う事を避け、突発的な現象に対しては、天文現象を観測してその意味を占いによって解釈して支配者に報告して対策を練る必要があった。日本における天文道の最高権威であった天文博士に求められたのは、天文異変の際の対処策であり、天文異変の異変の状況とその内容の吉兆を勘録した奏書を陰陽寮または蔵人所を通じて天皇に報告する事を天文密奏と称した。 律令制においては、暦道・陰陽道とともに陰陽寮の監督下に置かれ、天文博士(定員1名・正七位下)と天文生(10名)によって構成されていた。天文に関する現象は国家の存亡に関わる重大な現象であると捉えられ、天文生といえども勝手に天文に関する図書を読むことが許されない程であった(「養老律令」雑令 天文博士は天文生とともに毎晩夜空を観測して天文異変の有無を探り、異変があれば天文密奏を行った。また、天文生の教育にもあたった。主に教科書として用いられたのは、天文では『漢書』・『晋書』の天文志や『天漢書
天文
天文異変
天文道
概要
もっとも、天文道そのものが陰陽道と比較して日本の律令国家においては、余り重要視されたとは言えなかった部分があり、夜空の観測も平常は戌の刻と寅の刻の定時観測のみであったとされている。 更に平安時代中期に賀茂保憲から天文道を継承した安倍晴明以後、天文道は安倍氏(後の土御門家)の家学となり、他氏の者が関わることを避ける傾向が現れた。安倍氏(阿倍氏)は阿倍比羅夫や仲麻呂で知られるように大化前代以来の豪族・貴族の家系で、貴族官僚として陰陽頭に任じられた人物はいるものの、専門官僚として陰陽道・天文道の官に就いたのは晴明が最初であったと考えられている。そして、経歴的には天徳4年(960年)には40歳で未だに天文得業生、天禄3年(972年)にようやく天文博士(『親信卿記
安倍氏による天文道支配
だが、安倍晴明の陰陽道・天文道における長期の活躍と長寿、吉昌・吉平の2人の男子に恵まれたことが大きい。吉昌は天禄元年(970年)に賀茂保憲の推挙で天文得業生に推挙され、寛和2年(986年)に晴明の後任の天文博士に任じられ、寛弘元年(1004年)に陰陽頭を兼任し、死去するまで天文博士を兼務していた。また吉平も正暦2年(991年)に陰陽博士に任じられていたことが知られ、陰陽助などを経た後に従四位下に叙され、寛仁3年(1019年)に天文博士であった吉昌死去を受けて天文密奏の宣旨を受ける。これは当時の天文権博士和気久邦が伊予国に滞在中であり、天文密奏宣旨を受けた2名も技術が未熟であったために応急措置として与えられたものである。その年、吉平は天文得業生であった息子安倍章親を天文博士に推挙した。更に長元8年(1035年)に章親実弟の安倍奉親が天文権博士に任ぜられ、安倍氏が天文両博士を独占した(更に2人の長兄安倍時親も長元4年(1031年)に天文密奏宣旨を受けている)。