この項目では、天文学について説明しています。その他の用法については「天文」をご覧ください。
位置天文学の活動の一例。暗い星雲(DNe)のプロット。天体力学の一例。コンピュータを用いた 小惑星2060キロンの軌道計算(コンピューティング)と計算結果の表示。天体物理学の一例。天体の回転モーメントに応じた磁気モーメントの観測値のグラフ。
天文学(てんもんがく、英:astronomy, 独:Astronomie, Sternkunde, 蘭:astronomie (astronomia)[注釈 1], sterrenkunde (sterrekunde)[注釈 1], 仏:astronomie)は、天体や天文現象など、地球外で生起する自然現象の観測、法則の発見などを行う自然科学の一分野。 現代の天文学は主に3つの分野に分類できる。位置天文学・天体力学・天体物理学である。 天文学は自然科学としてもっとも早く古代から発達した学問である[1]。先史時代の文化は、古代エジプトの記念碑やヌビアのピラミッドなどの天文遺産を残した。発生から間もない文明でも、バビロニアや古代ギリシア、古代中国や古代インドなど、そしてイランやマヤ文明などでも、夜空の入念な観測が行われた。 現代の天文学 (astronomy) を、天体の位置と人間界の出来事には関連があるという主張を基盤とする信念体系である占星術 (astrology) と混同しないよう注意が必要である。これらは同じ起源から発達したが、現代では完全に異なるものである[2]。なお、現代において、天文現象について天文学的に論ずるときは当然占星術はいっさい排除しなければならないが、学問的に17世紀ごろまでの天文学史を研究する時は、占星術と天文学の関係も研究しなければならない。 もともと天文学という学問は、研究者が研究対象に直接触ったり取り扱ったりすることができず、また実験を行うことができないものと考えられていた。ところが近年は探査機が資料を持ち帰る時代になり、そのため太陽系の天体は純粋な天文学の対象から惑星物理学の領域に移りつつある[3]。この例を除けば、天文学が基本的に用いる手段は電磁波を受信するリモートセンシングが中心となる[3]。 天文学の研究には2つの側面がある。宇宙には地球のどんな実験室でも実現が難しい超高温・超高密度の領域がさまざまなところにあり、このような極限状態でも地上の物理法則が適応できることを確認してその普遍性を検証する点がその第一である。これは惑星運動を物理法則で説明した試みが嚆矢に当たる。もうひとつは人類が宇宙の中でどのような位置づけにあるかを考えることであり、いわゆる宇宙観の形成と言える。大抵の場合、天文学の研究にはこの両者が含まれる[3]。 一方、「天文学は、宇宙を研究対象とする宇宙論(うちゅうろん、英:cosmology)とは深く関連するが、宇宙論のほうは思想哲学を起源とする異なる学問である[4]」と述べる者もおり、立場の違いによってさまざまな見解が存在する。 位置天文学は天体の位置を、天体力学は天体の運動を研究する学問で、天文学の中でも古典分野とみなされている。 「天文学」(astronomy) と「天体物理学」 (astrophysics) は同義語である[5][6][7]。厳密な辞書的に定義すると、天文学は「地球大気の外にある@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}モノやコト[訳語疑問点]についての物理・化学的性質に対する研究」であり[8]、天体物理学は「天体や天文現象の振る舞い・物理的性質・動力学的過程」を取り扱う天文学の一分野である[9]。たとえば、フランク・シューが1982年に著した入門書『The Physical Universe』の導入部には、天文学は対象の質的研究を指し、天体物理学が取り扱う対象は物理学的志向が高いという[10]。しかし、現代のほとんどの天文学の研究は物理学的対象を取り扱う[訳語疑問点]ようになり、天文学は事実上天体物理学とみなされるようになった[5]。 歴史的には、天文学の学問領域は位置天文学や天測航法また観測天文学や暦法などと同じく多様なものだが、近年では天文学の専門家とはしばしば天体物理学者と同義と受け止められる[11]。 一方、観測天文学など一部の分野は、天体物理学というより旧来の天文学にあたる。天体に関わる研究を行うさまざまな分野では両方の単語が用いられ、その分野が歴史的に物理学の一部に相当するかによって決まることもある[6]。なお、現代では多くの専門的な天文学者は、天文学でなく物理学の学位を取得している[7]。 はるか昔、文字によって歴史が記されるようになる前の時代、天文学は肉眼による天体の観察と位置の予測だけであった。ときにストーンヘンジのような巨大な人工物がこの目的のために作られることもあり、それは儀式の舞台だけでなく、季節を知り植物の種まきをする時期を定めるために1年の長さを決定する天文台の役割を果たした[12]と推察されている。 古代になり、文字で記録や歴史が残される時代になっても、星の研究はもっぱら肉眼で行われた。しかし文明が発達するとともに、バビロニア・中国・エジプト・ギリシア・インド・中央アメリカなどで天文台が建設され、宇宙の根元についての考察が発展を始めた。ほとんどの初期天文学は、恒星や惑星の位置を記す、現在では位置天文学と呼ばれるものだった。これらの観測から、惑星の挙動に対する最初のアイデアが形成され、宇宙における太陽・月そして地球の根源が哲学的に探求された。「地球は宇宙の中心にあり、太陽・月・星々が周囲を廻っている」と考えられた。この考え方は、クラウディオス・プトレマイオスから名を取って「プトレマイック・システム (Ptolemaic System
概説
位置天文学・天体力学・天体物理学
歴史詳細は「天文学史」を参照
有史以前
ストーンヘンジ
古代
数学的または科学的な天文学は、初期段階における非常に重要な進展だった。これらはバビロニアの人々によってもたらされ、後に多くの文明へと展開していく天文学の潮流を創り上げたものだった[14]。バビロニアの天文学(英語版)では、月食が一定の期間で再度起こることをサロス周期として発見した[15]。
紀元前164年のハレー彗星の出現を記録しているバビロニアの粘土板。
月の天体暦と満月の日付の表を載せているバビロニア粘土板(en:Oriental Institute (Chicago)所蔵)
宵の明星、金星に関して、24年間にわたり、日付と位置を表形式で記録している粘土板(シカゴOriental Institute所蔵)
バビロニアの粘土板で、紀元前323年-322年の天体観測や気象観測の記録日誌の一部であり、アレクサンダー大王が死んだということを記述している箇所。(大英博物館所蔵)
ギリシアの赤道日時計(紀元前2世紀-3世紀)。現在はアフガニスタンのアイ・ハヌムにある。
バビロニアの後、古代ギリシアとヘレニズム世界において天文学はさらに進歩した。ギリシア天文学はその初期段階から、天球における天体の回転運動を物理的に説明することを目指した点を特徴とした[16]。紀元前3世紀、アリスタルコスは地球の大きさと、月や太陽の大きさと距離を計算し、太陽中心説による太陽系モデルを提案した。紀元前2世紀にはヒッパルコスが歳差を発見し、月の大きさと距離を計算し、アストロラーベのような初期の天文学装置を発明した[17]。ヒッパルコスはまた、1020個の星とギリシア神話の神々の名に由来する北半球の星座のほとんどについて、詳細なカタログを作成した[18]。紀元前150?80年ごろ制作のアンティキティラ島の機械は、特定の日における太陽や月および星々の場所を計算するよう設計された、初期のアナログ計算機である。ヨーロッパにおいて、これに匹敵する制作技術の再興は14世紀の機械式天文時計の登場を待たなければならなかった[19]。
中世
中世の時代、天文学は少なくとも13世紀になるまでヨーロッパでは停滞し、替わってイスラム世界などほかの地域で発展した。イスラムでは、9世紀初頭までに最初の天文台が建設され、これが寄与した[20][21][22]。964年にはアブドゥル・ラフマーン・スーフィーによって局所銀河群最大の銀河であるアンドロメダ銀河が天の川の中から発見され、著作『星座の書』に記録された[23]。1006年、非常に明るい等級で輝いた超新星SN 1006は、エジプトのアラビア人天文学者アリ・イブン・リドワンや、中国の天文学者らによって記録された。バッターニー、サービト・イブン・クッラ、アブドゥル・ラフマーン・スーフィー、アブー・マアシャル、アブー・ライハーン・ビールーニー、ザルカーリー、ビールジャンディー(英語版)らイスラム世界の天文学者(ほとんどがペルシャやアラブ人)や、マラーゲ天文台(英語版)、ウルグ・ベク天文台などは、科学の発展に大きく寄与した。彼らが用いた星の名は、多くが現在に引き継がれている[24][25]。
これらの他にも、グレート・ジンバブエ遺跡やトンブクトゥに[26]天体観察をする建物があったという推察もある[27]。以前、ヨーロッパ人は植民地化される前のブラックアフリカでは天文観察は行われなかったと考えていたが、近年の発見はこの思い込みを覆しつつある[28][29][30]。1539年に描かれた、プトレマイオス的な体系を示す図。地球が中心にあり、周囲に天球があり、太陽や諸惑星が回る。外側のほうに恒星がはりついている(ペトルス・アピアヌス、Cosmographia、1539年)。