天文の乱
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この項目では、天文年間の伊達氏の内紛について説明しています。天文年間の大崎氏の内紛については「天文の内乱」を、本願寺と一向一揆の蜂起については「享禄・天文の乱」を、法華宗を中心とした争乱(天文法華の乱)については「法華一揆」を、能登国の戦乱については「能登天文の内乱」をご覧ください。
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2023年1月)
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天文の乱(てんぶんのらん)とは、天文11年から17年までの6年間(1542年 - 1548年)、伊達氏当主・伊達稙宗嫡男晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。洞の乱(うつろのらん)とも呼ぶ。
背景

永正11年(1514年)に伊達氏第14代当主となった稙宗は、多くの子女を近隣諸侯の下に送り込むことで勢力を拡張し、家督相続からの30年間で10郡を支配下に収め、陸奥守護職を獲得し、天文年間初頭には最上相馬蘆名大崎葛西ら南奥羽の諸大名を従属させるに至った[注釈 1]。奥羽に一大勢力圏を築き上げた稙宗は、一挙に拡大した伊達家中の統制を図るべく『蔵方乃掟』・『棟役日記』・『塵芥集』・『段銭古帳』などの分国法・台帳を次々と作成して集権化を推し進めていった。また特に稙宗に協力的であった婿の相馬顕胤に伊達領の一部となっていた相馬旧領の宇多郡・行方郡の一部を還付しようとしたが、この案に稙宗の長男・晴宗が猛反発する。

これに加えて、さらなる勢力拡大を目論んだ稙宗が、三男・時宗丸(後の伊達実元)を越後守護・上杉定実の養子として送る案を示したことで、父子間の対立は決定的なものとなる。天文9年(1540年)には越後においてこの案に反対する揚北衆本庄房長らが挙兵して紛争へと発展しており、稙宗もこれに対抗するために軍事介入を図った。

一方、当時越後の実権を握っていた前守護代の長尾為景は当初はこの縁組を推進する立場を示していたが、稙宗の軍事介入をきっかけに反対を明確化する。その方針は天文10年(1541年)に長尾為景が死去して、嫡男である守護代の晴景が長尾氏の当主になった後も変わらなかった。しかし、自らの後継者が得られない事に不満を抱いた定実が出家・隠遁を計画していると知った晴景はやむなく稙宗に縁組への同意を伝えるが、越後国内では「越後天文の乱」と称される一連の内乱の影響もあって反対する動きは収まらなかった。当時の長尾氏の越後支配は守護代として守護上杉氏を擁していることでその正当性を得ており、為景父子は定実の死後に同氏が断絶することを危惧する一方で、伊達氏が越後に介入・進出することを警戒していたとみられる[2]

稙宗はこれら反対派に対抗するため、越後に入国する時宗丸に家臣100名を選りすぐって随行させることにした。強兵を引き抜かれることで伊達氏が弱体化することを恐れた晴宗は、中野宗時桑折景長・牧野宗興ら稙宗の集権化政策に反発する重臣達の支持を受け、天文11年(1542年)ついに父・稙宗を押し込めることを決意する。

なお、長谷川伸は、時宗丸の入嗣の背景には越後側の要請、すなわち「越後天文の乱」によって上杉定実との関係が悪化していた長尾為景が関係改善のために後継者を求めて中条藤資を仲介として伊達稙宗と交渉したのがきっかけではないか、と推測する。しかし、長尾為景が求めたのは長尾氏の意向に従う守護であり、伊達稙宗が望んだのは養子縁組を通じて越後を伊達氏の勢力下に組み込む(結果的には実質上の「国主」となっていた長尾氏の排除につながる)ことであった。その結果として越後国内の入嗣反対派への稙宗の直接的軍事介入と為景の後奈良天皇からの「私敵治罰」綸旨(稙宗を標的とするもの)の獲得に至って交渉が一時決裂して、双方内部の事態が混迷化したとしている[3]
対立構図

太字は稙宗の子、斜体は稙宗の婿。



主な伊達稙宗派

伊達

伊達稙宗西山城丸森城

小梁川宗朝宗秀高畠城


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