天幕駅
てんまく
Temmaku
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所在地北海道上川郡上川町字天幕.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度51分29秒 東経142度49分32秒 / 北緯43.85806度 東経142.82556度 / 43.85806; 142.82556座標: 北緯43度51分29秒 東経142度49分32秒 / 北緯43.85806度 東経142.82556度 / 43.85806; 142.82556
所属事業者北海道旅客鉄道(JR北海道)
所属路線石北本線
キロ程50.5 km(新旭川起点)
電報略号テマ
駅構造地上駅
ホーム1面1線
開業年月日1929年(昭和4年)11月20日[1]
廃止年月日2001年(平成13年)7月1日[2]
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天幕駅(てんまくえき)は、北海道上川郡上川町字天幕に存在した北海道旅客鉄道(JR北海道)石北本線の鉄道駅である。2001年(平成13年)7月1日に廃止された。電報略号はテマ。事務管理コードは▲122509[3]。
歴史1977年の天幕駅と周囲約500m範囲。右が遠軽方面。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
1929年(昭和4年)11月20日:鉄道省石北西線上川駅 - 中越駅間延伸開業により一般駅として開業[4][5][6]。
1932年(昭和7年)10月1日:所属路線が石北線と線名改称[5]。
1935年(昭和10年)9月:千歳鉱山株式会社天竜鉱山精錬所竣工[注釈 1]。
1940年(昭和15年):天竜鉱山精錬所閉鎖[注釈 2]。
1949年(昭和24年)6月1日:公共企業体である日本国有鉄道に移管。
1961年(昭和36年)4月1日:所属路線が石北本線に改称[5]。
1973年(昭和48年):公衆電報・荷物配達取扱廃止[6]。
1975年(昭和50年)12月25日:貨物取扱廃止し旅客駅となる[6][1]。
1983年(昭和58年)1月10日:CTC導入により無人化[7]。手小荷物取扱廃止[6][1]。
1986年(昭和61年)11月1日:同日のダイヤ改正で上川駅 - 白滝駅間の普通列車が1日1往復となり、当駅も1日1往復のみの停車となる[5]。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄の分割民営化により北海道旅客鉄道に承継[1][5]。
2000年(平成12年)
2月:交換設備を廃止。
7月:旧2番線を撤去。
2001年(平成13年)
2月1日:同日より4月30日まで営業休止。
7月1日:廃止[2][5]。
駅名の由来「留辺志部」の由来については「上川町#町名の由来」を参照
もともと同地は明治30年代に「上留辺志部」の名称で殖民区画が募集され(当時は入植者が現れず不成功に終わった)[8]、開業時点の地名も「上川村字ルベシベ[4]」であったがその後字名は整理改称されている。
「天幕」の名称は1889年(明治22年)から1893年(明治26年)にかけて中央道路(のちの国道39号に相当)建設にあたって天幕(テント)が張られたことから出た通称とされ、『駅名の起源』(1939年版)ではこの説を採る[9]。この天幕については、測量時に張られたテントであったという説や[10]、土木工事に際しての天幕張りの事務所であったという説[9][11]がある。
このほか、後述の当地に住んでいた男性の渾名が「天幕三次郎」であったことから、それに由来するとした俗説があり、しばしば人名由来の地名・駅名と紹介される[12][13]。 殖民区画の制定前、おそらく中央道路建設と同時期の1890年(明治23年)ごろから[8]、同地の留辺志部川畔で清水三次郎[注釈 3]という男(以下三次郎)が小屋で狩猟生活をしていた[10]。彼は「天幕三次郎」の渾名で呼ばれていた。この名がついた経緯については、中央道路測量のテントを張った場所に住みついたことから三次郎が自称したとする説[10]や、三次郎が天幕生活をしていたことからついた名とする説[12]などがある。 三次郎は1897年(明治30年)頃には広い家を建て、同地で私設駅逓の役割を果たしていたが、同棲していた未亡人の連れ子であったお花という女性と1903年(明治36年)に駆け落ちし、六号野上(現在の遠軽町栄野)の駅逓で駅逓夫として働いた[10]。 その後、住民との間にお花とのうわさ話が広まったことと、1年後の10月に中央道路の郵便駅逓が廃止されたのを機に、瀬戸瀬にある隠れ沢(現在の字名では栄野)でお花と共に再び猟業を始めた。しかし三次郎は翌春までに熊害に遭い死亡し、残されたお花は湧別の屯田兵佐藤小三郎と再婚し、白滝において旅館を営んだ後、雄武に移って時計店を開業した[10]。
天幕三次郎
田辺朔朗と三次郎