天守
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この項目では、日本の城の一部をなす建造物である天守の概論について説明しています。

日本の現存する12城の天守については「現存天守」をご覧ください。

各城の天守の損失年、再建年、現存・非現存・再建などを列挙した一覧については「天守の一覧」をご覧ください。

現存12天守
左1列上から姫路城彦根城松本城犬山城。中1列上から松江城備中松山城丸岡城弘前城。右1列上から伊予松山城高知城宇和島城丸亀城

天守(てんしゅ)とは、日本戦国時代以降のに建てられた象徴的な建造物の名称[1]。日本の建築学の学術用語である。俗語は天守閣(てんしゅかく)。ヨーロッパの城の象徴的建築である「keep tower」の日本語訳として使われることもある。
概略

日本の城の天守は、住宅として利用された天正期の安土城(織田氏)や大坂城(豊臣氏)などの例は別格として、江戸時代を通して居住空間として使用された例は少ない。姫路城熊本城などの江戸時代初期までに建てられた天守内には、井戸を伴う台所や便所、畳敷きの部屋など居住設備を設けていた例もあるが、城主は本丸や二ノ丸、三ノ丸などに建てられた御殿で政務や生活を行い、天守はおもに物置として利用されることが多かった[2]

江戸時代初頭、徳川幕府に届出をする際に天守の名称を憚ったの例があり、現在ではそれらの象徴的役割にあった櫓も天守に分類し、それらを総称して天守建築ということがある。外観で2重から5重のものがあり、安土桃山時代の末には最終防衛拠点としての位置づけがされており、本丸に築くことが多かった。本丸の中で天守をさらに囲うを造り、この郭を天守郭・天守曲輪(てんしゅくるわ)や天守丸(てんしゅまる)などと呼んだ。ちなみに、天守や櫓を建てることを「 - を上げる」という。

城によっては、小さめの多重櫓を小天守や副天守また小天守との間程の規模のものを中天守などといい、姫路城天守群のように小天守が複数ある場合には方角を冠することもある。それらがある場合特に大きな天守を、大天守ということが多い。主体の櫓に付属する櫓のことを続櫓(つづきやぐら)というが、天守に付属する櫓のことは付櫓・附櫓(つけやぐら)という。付属櫓・附属櫓(ふぞくやぐら)ということもある。

なお、天守は、櫓と同じく「基(き)」と数えるが、一般住宅と同じく「棟(とう・むね)」と数えられることもある。
表記と呼称

「てんしゅ」の漢字表記は「殿主」「殿守」「天主」なども当てられる。「天守閣」は明治時代前後に見られるようになった俗称である[3]建築学学術用語では「天守」(てんしゅ)が用いられている[4]。「てんしゅ」の名前の起こりには諸説ある。以下にいくつか紹介する。
帝釈天が、外郭をなす持双山に囲まれた須弥山にあって天部を主催した、という仏教思想の須弥山の姿に由来するという説[5]

天主(デオ、デウス)を楼閣内に祀ったからというキリスト教思想に由来する説[6]

岐阜城の天主が始まりで、織田信長が策彦周良に依頼して、岐阜城の麓にあったという4階建ての御殿に命名したものという説(宮上説)[7]

主殿(守殿)を守る建物という意味で「殿主」「殿守」と呼称され、後に「殿」の文字が「天」に転じた[5]

なお、「大天守」と「小天守」の呼称は、『金城温古録』蓬左文庫本では「オウ」と「コ」、鶴舞図書館本では「ヲホ」と「コ」の読み仮名を振っており、読みは「オウテンシュ」と「コテンシュ」としている[8]。また、『金城温古録』では「大天守」の表記は一般論を語った部分に事実上一例しかなく、尾張藩では「大天守」ではなく「御天守」を呼称としていた[8]
機能

天守は、一城の象徴的なものである。天守はまず軍事施設、要塞としての機能を持っている[8]。天守の起源の一つに関して「井楼」(物見櫓)に求める説がある[9]。天守は城郭内で最も安全な場所とされ、戦時には司令塔となり、大垣城の戦いのように武器修理の拠点として使用された例もある[8]

一方で天守は政治権力の象徴とされ、巨大な白亜の天守を持つ姫路城や金鯱で知られる名古屋城などにみられる[8]。見晴らしや防御力などの軍事的実用性を求めるのであれば、頑丈な物見櫓がその役を担う。天守はそれに加えて、城主の権威を誇示するための象徴性を求めるのである[10]

慶長期には、岡山城天守や熊本城天守のように書院造の要素を含んだ天守が建てられ、儀式や迎賓、有事の避難場所などにも使われた[11]。一方で、徳川家康の名古屋城天守や広島城天守のように、外観を重視して内部をなるべく簡素に造ったものも表れ、城主や客人が立ち入る建物としての機能が天守からは省略され始めた。その後は空き家であることが多く、物置として用いられることも少なくなかった[3]

江戸時代の兵学では、天守の10の利点と目的が「天守十徳」として述べられている[12]
城内を見渡せる

城外を見晴らせる

遠方を見望できる

城内の武士の配置の自由

城内に気を配れる

守りの際の下知の自由

敵の侵攻を見渡せる

飛び道具への防御の自由

非常の際に戦法を自在にできる

城の象徴

歴史
起源

名称、様式・形式が何から由来しているかについての結論は出ていない。

初期の頃は物見櫓・司令塔・攻城戦の最終防御設備としての要素が強かったが、織田信長近畿平定の頃からは遠方からでも見望できる華麗な権力を象徴する建造物という色彩が濃くなっていったものとも考えられている。

西ヶ谷恭弘は、吉野ヶ里遺跡などにあった楼観や戦国時代の井楼(せいろう)などの仮設の高層建築に城郭の象徴となる建物の起源を求めている。そのような象徴的に建てられたものを最初に“てんしゅ”と呼んだのは室町幕府第15代将軍足利義昭の御所であった室町第に建てられた天主であるというものである[13]。一方、三浦正幸は、天守の起源を井楼などに求めず、中世の城郭などに建てられた恒久的な高層で大型の礎石建物であるとし、それを“てんしゅ”と呼んだ建物には信長に関係があるとしている[14]

一般的に今日見られる本格的な5重以上の天守の最初のものとされているのは織田信長天正7年(1579年)に建造した安土城滋賀県近江八幡市安土町)の天主であるといわれる。ただし、天守のような象徴的な建物は安土城以前にまったくなかったわけではなく、陸奥国府鎮守府が置かれた多賀城正殿楠木正成千早城、望楼櫓や1469年前後の江戸城にあった太田道灌の静勝軒、摂津国人伊丹氏の居城伊丹城兵庫県伊丹市[15]、また松永久秀永禄年間(1558年 - 1569年)に築いた大和多聞山城信貴山城の四階櫓、さらに柴田勝家1575年に築いた北ノ庄城の7重(一説には9重)のものなどが各地に建てられていた。天守のような建物が初めて造られた城はわかっておらず、伊丹城、楽田城、多聞山城などが古文献などを根拠に天守の初見として挙げられているが、具体的な遺構などは不詳であり、いずれも天守の初見であるとの立証が難しくなっている。
発展

そのように、建てられてきた城の象徴的な高層建築、いわゆる天守をさらに流行させたのは豊臣秀吉である。豊臣秀吉により大坂城伏見城と相次いで豪華な天守が造営されると、それを手本に各地の大名が自身の城に高層の天守を造営させた。このように天守は、織田信長、豊臣秀吉の織豊政権下において発達した「織豊系城郭」に顕著に見られることから、織豊系城郭の特徴のひとつにあげられる[16]。また、この時代に活躍した天守造営の名手として中井大和守正清岡部又右衛門などが挙げられる。


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