天坊昭彦
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天坊 昭彦(てんぼう あきひこ、1939年11月16日 - )は、日本の実業家出光興産株式会社社長、石油連盟会長、武蔵野美術大学理事長などを歴任。
人物

1939年11月16日、東京都中野区で3人兄弟の次男として生まれる。天坊という名字は奈良県の「天之坊」という僧院がルーツだという[1]

父の仕事の関係で、大阪、北海道、東京と6つの小学校を巡り、最終的には小学校6年生の春、成蹊小学校に転校する[2][注釈 1]

1956年、高校2年生のころ、父天坊裕彦参議院議員になる。

1958年成蹊高校卒業。2年間の浪人生活を経て1960年4月、東京大学文科1類へ入学。学生のころはスキーに夢中になった。

また、大学3年生の頃は父の公設第2秘書も経験する[3][注釈 2]

1964年4月出光興産に就職。出光に就職したのは、就職活動中友人との待ち合わせまでに時間が空いてしまい、時間つぶしで訪ねたことがきっかけ。採用担当者から誘われ試験を受験し採用された[4][注釈 3]

出光入社後、最初の配属先は福岡支店だった[5]。その後横浜支店[6]、本社石油開発室へと異動する。

本社に新設された石油開発室では、日本海の新潟・阿賀沖の開発に携わる。1971年に試掘を開始し、商業生産が可能と判断。1976年、日本初の本格的な洋上油田となる阿賀沖油・ガス田が生産を開始した[7][注釈 4]

1985年7月、15年間従事した石油開発事業から転身し、国際金融課長として為替を扱うようになる。石油代金の決済に必要となる外貨の調達業務にあたる[8][注釈 5]

1988年夏、出光ヨーロッパの社長に就任し、ロンドンに赴任。在任中にノルウェー領北海での油田買収とポルトガルでのガソリンスタンド網の構築に尽力する[9]

1991年7月、取締役部長として帰国。バブル経済が崩壊し、株価が下落する中、有利子負債圧縮と事業の選択・集中に取り組む[10][11][12][13][14][注釈 6]

2002年社長就任。また、2006年度に上場することを社内外に発表する[14][注釈 7]

社長在任中の最大の投資は、ベトナムでの製油所の建設・運営事業。構想から15年、総事業費1兆円を投じたベトナム中部タインホア省のニソン製油所は、2018年に稼働を開始した[15]
略歴

東京都出身。成蹊学園出身。

1964年3月 - 東京大学経済学部卒業[16]

1964年4月 - 出光興産株式会社入社。

1966年12月 - 横浜支店営業課[6]

1970年3月 - 石油開発室[7]

1976年7月 - デンバー事務所[17]

1980年2月 - 出光石油開発企画課長[17]

1985年7月 - 経理部国際金融課長[8]

1988年7月 - 出光ヨーロッパ社長(ロンドン)。

1991年6月 - 取締役経理部長。

1998年6月 - 常務取締役(経理部、海外部担当)[18]

2000年6月 - 専務取締役(販売担当)に就任。

2002年6月 - 同社の代表取締役社長に就任。

2008年5月、石油連盟会長就任[19]

2009年6月 - 同社の代表取締役会長に就任。

2012年6月 - 同社相談役[20]

2012年12月、武蔵野美術大学の理事長に就任[21][22]

2017年6月 - 出光興産顧問。

2019年11月 - 旭日重光章受章[23][24]

関連項目

出光興産

出典
注釈^ 成蹊学園の名は、「桃李ものいはざれども、下おのづから蹊を成す」という中国の諺に由来する。
^ 高校生2年生のころ、父の元に書生として手伝いにくるようになった年長者と話をしているうち、政治家になりたいと思いが芽生えたという。しかし、政治の世界を垣間見て、人の名前と顔を覚えることが不得手な自分には政治家は難しいと思ったという。
^ 天坊は、大学3年生のころゼミの研究テーマとして、民族石油会社と外資系会社の投資戦略の違いを取り上げ、資料を貰うために出光に訪れていた。
^ 阿賀沖の開発では、出光・アモコ(現BP)連合と隣接する工区を持つ石油資源開発や三菱ガス化学を企業連合を組んだ。なお、阿賀沖開発後に出光はタイ、米アラスカ湾、海南島と自前での石油探鉱を試みるが失敗が続いたという。
^ 国際金融課長時代の1985年9月22日、プラザ合意がなされる。急激な円高に見舞われる中、銀行の大物ディーラー達から「目先の動きにとらわれず、大きな流れを見ろ」と教えられる。
^ 93年3月末、出光興産の有利子負債はグループ全体で2兆5000億円。なお、出光単体の93年の売上高は約1兆8,000億円。
^ 出光興産の創業者である出光佐三には「資本は人なり」「資本金は無をもって理想とする」という経営理念がある。そのため、上場に関する議論は出光社内ではタブー視されていた。天坊は1995年から少しずつ関係者の理解を得る努力を積み重ね、2006年の上場を実現させる。

脚注^ “天坊昭彦(2)父の国政進出 一変した家族の生活 急な来客、母が切り盛り”. 日本経済新聞 (2020年4月2日). 2020年5月4日閲覧。
^ “天坊昭彦(3)転校を重ねる 5日がかりの引っ越し 小樽でスキーに目覚める”. 日本経済新聞 (2020年4月3日). 2020年5月4日閲覧。
^ “天坊昭彦(5)東大時代 垣間見た政治の世界 父の公設第2秘書に”. 日本経済新聞 (2020年4月5日). 2020年5月4日閲覧。
^ “天坊昭彦(6)就職活動 偶然が導いた出光入社 素早い内定、成長の勢い感じる”. 日本経済新聞 (2020年4月6日). 2020年5月4日閲覧。
^ “天坊昭彦(7)最初の配属 福岡で業務一通り経験 生涯の同志との出会い”. 日本経済新聞 (2020年4月7日). 2020年5月4日閲覧。
^ a b “天坊昭彦(8)横浜支店 見過ごした伝票にお叱り 若い弟と思ってお節介やけ”. 日本経済新聞 (2020年4月8日). 2020年5月4日閲覧。
^ a b “天坊昭彦(9)石油開発に参入 日本初の本格洋上油田 新設部署で一から着手”. 日本経済新聞 (2020年4月9日). 2020年5月4日閲覧。
^ a b “天坊昭彦(12)国際金融課長 プラザ合意に翻弄 為替で磨いた大局観”. 日本経済新聞 (2020年4月12日). 2020年5月4日閲覧。


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