天候不順以外で中止・打ち切りになった日本プロ野球の試合
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天候不順以外で中止・打ち切りになった日本プロ野球の試合(てんこうふじゅんいがいでちゅうし・うちきりになったにほんプロやきゅうのしあい)では、日本のプロ野球日本野球機構及びその前身組織運営)で試合当日の野球場および付近の天候悪化(降・降強風・濃日没サスペンデッドなど)及びそれによるグラウンドコンディション不良以外における理由によって中止された試合(ポストシーズン・一部オープン戦含む)を挙げる。
凡例

旅客列車新幹線特急寝台列車など)・航路航空路線の遅延・欠航運休鉄道路線計画運休損傷による運転見合わせ、高速道路交通渋滞通行止めなどが発生したことで選手・用具などが不着となったことによる開催中止については、その交通機関の乱れが天候(台風集中豪雨洪水など)に起因するかどうかを問わず、この一覧記事に収録する。

ナイトゲーム照明器具の不具合故障による中止については、その事象が天候に起因するかどうかを問わず、本一覧に収録する。

気象的要因でない災害火災・大地震噴火空襲など)による中止については収録する。

ドーム球場において、球場所在地での悪天候(台風・大雨など)により試合催行や観客の来場に支障をきたす事態となったことによる試合中止例については、ドーム球場#ドーム球場での試合中止事例を参照。

鉄道路線の計画運休によって開催前日に試合中止が決定した場合は収録する。


ポストシーズンでの勝者が決定したことにより不催行となった試合は多数あるため、天候不順以外の理由であっても収録していない。

ポストシーズンで天候以外の理由により、本拠地球場が使用できないことによる開催地や日程の変更が生じた試合は収録する。

2軍の試合中止についてはいかなる理由についても本一覧に収録しないが、新型コロナウイルス感染症に伴う副次的影響による備考欄への記載は可能とする。

試合は原則として、「年月日」「ホームチーム - ビジターチーム」「開催地」の順に表記する。

☆印は、未消化の試合があるまま閉幕したシーズンの、該当する「未消化の試合」となったケース。

試合の一覧
1リーグ時代

年月日チーム球場備考
1937年10月27日東京巨人軍 - 東京セネタース
後楽園スタヂアムセネタース1点リードの9回裏1死1・3塁の巨人の攻撃で、水原茂の投手ゴロが併殺崩れとなりその間に1点が入ったが、セネタース側のアピールで守備妨害となり試合終了。これに対し巨人は提訴を行い、11月30日に当該試合を無効として一旦は再試合開催が決定するも、順位への影響がないことから12月9日に中止が決定した。
1938年3月15日東京巨人軍 - 名古屋金鯱軍洲崎球場試合中に東京湾の埋め立て地にある洲崎球場が満潮による水位上昇で浸水したため、5回ノーゲームとなった。
1941年5月20日阪神軍 - 阪急軍後楽園スタヂアム7回表、阪急の日比野武の二塁盗塁の際、島秀之助塁審が一旦アウトの判定をした後、阪急側の抗議で判定をセーフに変更し、阪神側も抗議をしたため試合が紛糾。1時間以上中断した後、後に変則ダブルヘッダーの第2試合が控えていたこともあって審判団はノーゲームを宣告し再試合を行うこととした(当時は「7回終了で試合成立」という規定になっており、またナイター設備もなかった)。
1942年4月18日東京巨人軍 - 黒鷲軍後楽園スタヂアムドーリットル空襲の空襲警報発令のために東京巨人軍 - 黒鷲軍戦が中止、名古屋軍 - 阪神軍戦が打ち切りとなった。
名古屋軍 - 阪神軍阪神甲子園球場
1942年4月21日阪神軍 - 大洋軍阪神甲子園球場空襲警報発令の為に打ち切りとなった。この後、日本野球連盟は空襲警報発令時の対応マニュアルを急遽作成して全チームに通達した。
1944年6月17日東西対抗試合後楽園スタヂアムアメリカ軍の航空部隊が東京を空襲し開催中止となった。
1945年全試合(省略)1944年11月の時点で、太平洋戦争激化のためすべての試合が中止となった。
1945年の日本プロ野球」も参照
1949年

以下3試合
読売ジャイアンツ - 大陽ロビンス
南海ホークス - 大陽ロビンス
以下2試合
阪急ブレーブス - 東急フライヤーズ
大映スターズ - 大阪タイガース
南海ホークス - 中日ドラゴンズ
以下1試合
読売ジャイアンツ - 阪急ブレーブス
読売ジャイアンツ - 大映スターズ
読売ジャイアンツ - 大阪タイガース
阪急ブレーブス - 大映スターズ
大映スターズ - 中日ドラゴンズ
大映スターズ - 大陽ロビンス
備考
いずれも☆(省略)10月中旬からサンフランシスコ・シールズとの日米野球が開催されたため、約3週間公式戦が中断。その後再開したものの11月下旬になっても日程を完全に消化できなかったため、11月29日をもって公式戦を打ち切り。左記の合計18試合が未消化のまま閉幕した。

2リーグ化後
昭和時代 

年月日チーム球場備考
1950年

以下2試合
松竹ロビンス - 西日本パイレーツ
中日ドラゴンズ - 西日本パイレーツ
以下1試合
松竹ロビンス - 国鉄スワローズ
中日ドラゴンズ - 広島カープ
国鉄スワローズ - 広島カープ
備考
いずれも☆(省略)11月中に日本シリーズを終了させるために、セ・リーグ優勝チームの松竹がまだ3試合を残していた11月20日で公式戦を打ち切り。左記7試合が未消化のまま閉幕した。なお、パ・リーグは日本シリーズ第1戦開催日の11月22日に全試合を消化して閉幕した。
1951年8月19日名古屋ドラゴンズ - 読売ジャイアンツ
中日球場午後4時前に3回裏の名古屋の攻撃中に火災が発生し、球場や球場事務所、周辺の民家等が全焼。ドラゴンズ主催試合は火災後に鳴海球場(名古屋市)や松阪公園グラウンド三重県松阪市)などに振り替えての開催となった[1]


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