この項目では、日本の元号について説明しています。その他の用法については「天保 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
天保(てんぽう)は、日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。
改元
文政13年12月10日(グレゴリオ暦1831年1月23日[1])、 同年に起きた江戸神田佐久間町火事(文政の大火。3月21日、グレゴリオ暦4月24日)や、文政京都地震(7月2日、同8月19日)などの災異のため改元
天保15年12月2日(同1845年1月9日[2])、 弘化に改元
勘者として式部大輔の桑原為顕・同権大輔の高辻以長・文章博士の唐橋在久の3名が知られ、桑原の勘進した案の中に「天保」があったことが知られている。後述のような曰くのある元号であったが、朝議でもその後の幕府への内慮でも特段の異論が出ずに改元が実施されている[3]。 「欽崇天道、永保天命。(欽んで天道を崇べば、永く天命を保んず。)」(『尚書』- 仲?之誥)。 なお、この元号は平安時代後期仁平4年(1154年)の改元の際にも最終候補に挙げられたものの、当時の左大臣藤原頼長が「天保」を≪一大人只十≫(付き従う臣民がたった10人)と読めるので縁起が悪いと猛反対したために久寿に差し替えられたという故事がある。
出典
天保年間の出来事
元年
伊勢お陰参り流行
秋田藩で大冷害。旧暦6月の土用の頃でも襦袢を着る必要な涼しさ。秋のコメの収穫は僅かで高騰を招いた[4]。
土佐藩にて、庶民の女性と子供が松製や杉製の下駄(日和下駄)を履き始める[5]。
2年
安治川の浚渫工事。浚渫した土砂を積み上げて天保山が築かれる。
長州藩で天保一揆。村田清風を登用して藩政改革
6年
天保通寳発行。
7年
天保の大飢饉、天保騒動飢饉の図
志太郡・益津郡の打ちこわし
8年
8月 大塩平八郎の乱、生田万の乱、モリソン号事件、徳川家慶が将軍に就任
7月 保字金発行
11月 保字銀発行
9年
10月 中山みきによって天理教が開かれる。
10年
蛮社の獄
12年
天保の改革
13年
7月、日本三名園のひとつ、水戸偕楽園が造園される。同7月、アヘン戦争の影響で薪水給与令
15年
寛政暦から天保暦に改暦
6月15日、渡来したオランダ国使節が幕府に「福祉の増進」を勧告 [6]
誕生
2年 孝明天皇(第121代天皇)
4年 木戸孝允(明治政府参議)
5年 江藤新平(初代司法卿)
6年 松方正義(第4・6代内閣総理大臣)、坂本龍馬 (海援隊隊長)、小松帯刀(薩摩藩家老)、天璋院篤姫 (第13代将軍徳川家定御台所)井上馨(元老)
8年 板垣退助(自由民権運動)、徳川慶喜(江戸幕府第15代将軍)
9年 大隈重信(第8・17代内閣総理大臣)、中岡慎太郎(陸援隊隊長)、山縣有朋(第3・9代内閣総理大臣)
10年高杉晋作(奇兵隊創設)
11年 黒田清隆(第2代内閣総理大臣)、渋沢栄一(実業家)
12年 伊藤博文(初代立憲政友会総裁、第1・5・7・10代内閣総理大臣)
13年 大山巌(陸軍大将、元老)