天保義民事件
[Wikipedia|▼Menu]

天保義民事件(てんぽうぎみんじけん)は、天保11年(1840年)に出羽国庄内藩主酒井忠器らに出された三方領知替えに対して、庄内藩の領民が反対運動を展開した事件。目次

1 概要

2 脚注

3 参考文献

4 関連項目

概要

天保11年(1840年)11月、庄内藩主酒井忠器は江戸幕府より、越後長岡藩への転封命令を受けた。庄内藩は表高14万石であるが、実高は21万石と言われ、藩主忠器らによる殖産興業や農政改革によって比較的安定した藩財政を維持していた。ところが、この転封は老中水野忠邦らの画策で、武蔵川越藩主松平斉典が実子を排除して大御所徳川家斉の子斉省を養子に迎えたことと引換に豊かな庄内藩を与えるためのものであると判明したため庄内藩内は紛糾した。

庄内藩の領民たちは、本間光丘の農政改革以来、農村に手篤い藩政への信頼が深く、天保4年(1833年)に起きた大凶作のさいに取った藩の迅速な救民策の記憶もあり[1]酒井家が何の落ち度もないのに表高7万4千石に過ぎない長岡藩に転封させられることを傷んだ。また、転封に伴って備蓄米を持ち去られることや貸付米の返済への懸念のほか、新しい藩主松平斉典への不安に駆られ、やがて領内に斉典の悪評が流れたため、ついに「百姓と雖も二君に仕えず」を合言葉に転封を撤回させるべく幕府への集団越訴を決意するに至った。

最初に江戸へ嘆願文を持って向かったのは西郷組本間辰之助に越訴を託された11人であったが、江戸に潜伏して機会をうかがっているうちに庄内藩の探索に見つかり、全員捕らえられて庄内に送り返された。

続いて玉龍寺の僧侶文隣らを中心に計画が立てられ、選抜された21人の領民が江戸へ向かい、うち十人が庄内藩士に捕らえられ、残った11人が江戸に到着し江戸で公事師をしていた同藩出身の佐藤藤佐に匿われた。

そして天保12年(1841年)1月20日、11人の領民らは佐藤藤佐の指示により五組に分かれ、幕臣の井伊直亮、水野忠邦、太田資始、脇坂安董、中山備中守にそれぞれ籠訴し捕らえられた。各藩で訴状の中身を改めたところ、藩主との離別を歎き転封撤回を嘆願する内容であった。従来の直訴といえば藩政の非を訴えるものであったため、藩主擁護の直訴は前代未聞として、このことが江戸市中に広まるや庄内藩への賞賛と同情が集まった。

なお、直訴を行った者たちは口頭注意程度の処分[2]で解放され身元保証人として領主である酒井家が彼らをひきとった。酒井家でも彼らを処罰することはなかった。

同じころ(天保12年)、閏1月7日に大御所の家斉が病死すると、外様大名一同が連名で領地替えを遠回しに抗議する伺書が提出されるなど、諸藩の間でも転封に疑問の声が上がり始める。

一方、籠訴が成功したことが領内に知れ渡るや、意気上がった領民たちは大規模な集会を開いて国替阻止の示威運動を展開した。大勢でかがり火を焚き、幟を立て気勢を上げるさまは、さながら一揆のようであったと記されている[3]。しかし幕府からの反応が一向に無かったことから、一部の領民たちは藩境を越え近隣の諸藩に国替え阻止を愁訴する方法を取る。仙台藩には、およそ三百人の庄内領民が越境愁訴したことから、驚いた仙台伊達家では藩主伊達斉邦が幕府に伺書を提出した。その内容は、庄内領民への同情を示しつつ理不尽な領地替えを命じた幕府を厳しく批判するものであった。また、同じく庄内領民が殺到した会津藩も幕府に伺書を提出しているほか、水戸藩でも同藩の軍師である山国喜八郎が「無理に国替えを強行すれば、決死の庄内領民が江戸に上り何をしでかすか判らない。決して小事と侮ることのないように」と藩主徳川斉昭に進言するなど、領民たちの国替え阻止運動は大藩をも動かすに至った。

こうした情勢のなか、4月に徳川斉昭の推薦によって、かねてより佐藤藤佐と知己であった矢部定謙が江戸南町奉行となった。矢部は水野忠邦の命によって、江戸において国替え阻止運動の首謀者だった佐藤藤佐を領民扇動の疑いで取り調べをしたところ、藤佐の口から川越藩が斉典の生母を通じて大奥から水野忠邦ら幕閣に対して転封工作を行った真相を告げられたため、これを調書にして閣老達に報告した。

ことの顛末を知った閣老達は、水野忠邦に三日間の登城遠慮を申し付け、水野欠席で閣老会議を開いた。5月に斉省が死去していたこともあって、転封は水野の専断によるものと断じ、天保12年7月12日、将軍徳川家慶の「天意人望に従う」という形で転封撤回を正式に決定した。

転封中止の報は早馬によって庄内津々浦々に知らされ、折からのお盆と時期が重なったこともあり酒や赤飯がふるまわれ武士町民百姓も一緒になって盛大に祝ったと記されている[4]

しかしこの後、庄内藩は幕命により印旛沼疎水工事を任じられ多大な出費を強いられることになる。工事を任じられた藩がいずれも水野忠邦と対立していた藩であったことから、転封撤回で面目を潰された水野による懲罰だったのではと言われている。また、調書を提出し転封撤回の端緒を作った矢部定謙も水野によってその年の12月に失脚したのち翌年3月には伊勢桑名藩預かりで幽閉され、四か月後失意のうちに病死した[5]。庄内藩では、矢部を恩人として残された遺族の援助を幕府に願い出て許されたほか、領内に矢部を祀った神社を立てその霊を慰めた。

この事件の背景には藩主を支持する領民の動きを幕府が抑えきれなかったこともあるが、後に「天保の改革」と呼ばれる老中水野忠邦の幕政改革に対する諸大名や民衆の不満の高まりとともに、水野への支持と幕府に対する反抗の広がりへの危惧の板挟みとなった将軍家慶の政治的判断があったと考えられている。実際、三方領知替え決定の責任者であった水野忠邦は、幕府の命令が事実上破棄されるという前代未聞の事態にも関わらず、老中の地位を慰留されている。
脚注

[脚注の使い方]
^ 『乍恐庄内二郡の百姓とも一統御歓願申上候書付の事』等、領民たちが他藩へあてたいくつもの訴状の文面に理由として挙げられている。京都大学アーカイブ 黒正巌『羽州庄内農民愁訴騒動』  ⇒http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/128433/1/eca0232_282.pdf
^ 当時は門訴や駕籠訴などの直訴行為自体は処罰対象ではなかった。直訴=死罪というのは後世の誤解である。
^ 夢の浮橋 挿絵【大より】  ⇒http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/47721/15
^ 夢の浮橋 挿絵【据わりを喜ぶ町民たち】
^ 抗議の絶食死だったとも言われている。

参考文献

『山形県大百科事典』(山形放送、1983年)P670「天保義民」(執筆者:佐藤三郎)

『庄内藩酒井家』(東洋書院、1975年)P273「天保国替事件」(執筆者:佐藤三郎)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:9910 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef