天下
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この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2023年11月)
「天下」の概念
図は漢代の華夷思想に基づくもの。「天下」概念は時代及び国によってその定義が異なるため、これはあくまで実例の一つである。赤の範囲が「華」或いは「夏」の領域で、一般庶民に至るまで漢の礼制・法制に従う。青は漢の徳の及ぶ「外臣」及び「朝貢国」の領域で、「外臣」とは漢皇帝に臣属した夷狄の君主たち。「外臣」の国では外臣のみが漢の礼制・法制に従う。その外側には未だ漢の徳の及んでいない「化外」の領域がある。外臣・朝貢国・化外は基本的に「夷」の領域である。一般に「天下」概念は観念上にこのような同心円的構造をもって成立する

天下(てんか、てんが、てんげ、あめのした)は、全世界を意味する概念。字義的には「普天の下」という意味で、地理的限定のない空間のことであるが、用法によっては一定の地理概念と同じ意味に用いられることもある。また一般に天下は、一定の秩序原理を伴い、その対象とされる地域民衆国家という形で捉えられる。すなわち一般に「世界」は「世界観」がなくても客観的に存在しているものと認識されるが、「天下」は一定の秩序原理によって観念的に成立している。
読み

「てんか」は漢音、「てんが」はその連濁、「てんげ」は呉音である。現在は「てんか」読みが普通だが、本来は「てんげ」と読んだ。「天上天下」など成句の中には、現在も「てんげ」と読むものがある。
英語への翻訳

「天下」は東アジア固有の思想背景に基づく要素が強く、かつ多義的な概念であるうえに、日本・韓国・ベトナムといった東アジアの異なった国でも歴史的に長く使われている言葉であるため、文脈によって特定の英単語に置き換えることは可能であるものの、1:1で完全に対応する語は存在しないので、少なくとも中国語の「天下」についてはピンインに基づく「Tianxia」を用いるか、「All Under Heaven」と直訳調で言及するのが一般的である[1][2][3]
定義と特徴
中国

中国における天下は、一般に中国王朝の皇帝が主宰し、一定の普遍的な秩序原理に支配されている空間であった。皇帝は天命を受けた天子とされた。天下の中心にあるのが中国王朝の直接支配する地域で、「夏・華夏・中華・中国」などと呼ばれる。その周囲には「四方」「夷」などといった中国王朝とは区別される地域があるが、これらの地域もいずれは中国の皇帝の主宰する秩序原理に組み入れられる存在として認識されていた。

歴史的には、天下の中心には必ず天子がおり、天下とは、天子の威徳が及ぶ範囲を指す[4]。その範囲は天子のによって自在に伸縮するため、明確な境域は存在せず、天子の徳が大きいほど天下は拡大し、逆であれば縮小する[5]。天下の拡大は直轄領の拡大のみならず、冊封国朝貢国の数・範囲の増大も含まれる[6]。したがって天下の広狭は天子の徳と密接に関わっており、天下領域の拡大は中国の支配者にとって有徳の証、政権の正当性の根拠と考えられた[7][注釈 3]

中国史における天下概念には少なくとも広狭2つの意味が看守され、狭義には天下は天子の実効支配領域(中国華夏あるいはのちには中華天朝と称される)、広義には天下は天子の実効支配領域に加え、その徳に服する、あるいは服するべき周辺諸国・民族(夷狄)を含んでいた[26][注釈 5]。しかし、これは中国人の間に広狭の2つの「天下」観が厳密に区別されて意識され、使用されていたことを意味せず、実際は広狭2つの天下が中国人の頭の中で渾然として一体化されて存在し、無意識裡に「天下」という言葉は広狭2つの概念で使われていた[35]。したがって、広狭いずれの「天下」が本質的な天下かという議論の前に、そもそも中国人はそれらを区別せずに一体として「天下」の語を使用しており、それらが指し示す内容はどちらも本当の天下であったという事実がある[36]。詳細は「中華思想」、「皇帝」、および「」を参照
日本

日本でも「天下」は歴史的に盛んに使われており、「天子」をその中心と見なすなど、その使われ方は中国の「天下」にほぼ準ずるが、遅くとも記紀編纂時期までには日本の「天下」は「天津神」と「高天原」の観念と結びついており、基本的に天下の主宰者である天子は天津神の子孫である天皇家の家系に限られるとする考えが形成されている。日本では、天皇が内政外交において、時代を通じて常に政務の最終決定権を持っていたわけではなく、外交の代表者であり続けたわけでもなく、したがって政治権力のすべてを掌握していたわけではないが、そのような時期でさえ、日本の政治権力者は天皇の職務を代行するという名目の下に権力を行使した。

日本における天下の概念は、はやく古墳時代に見ることができる。当時、倭国王は中国王朝に対して倭国王または倭王と称していたが、熊本県江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文などによれば5世紀後期ごろには国内に対して「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」と称していたことが判明している。これは、その時期までに、倭国内で「中国世界とは異なる独自の天下」概念が発生していた徴証だと考えられている。『隋書』によれば7世紀初頭の大業3年(607年)に倭国王(原文「?國王」)が皇帝煬帝への親書に自らを「日出處天子」と称したことも、中国世界と異なる天下概念が存続していたことを物語っている。7世紀には律令制の導入とともに中国的な天下概念が移入された。律令制の特徴である公民思想を伴って、「天下公民」という形で把握された。王朝国家の進展に伴って、平安時代には一時「天下」の概念は廃れるが、鎌倉幕府の成立が「天下の草創」と認識された。室町時代以後は、「天下」の語は畿内・近国とその周辺の領域のことを主として意味していたことがほぼ確実になりつつある[37][38][39]織豊政権期以降、武家社会の進展に伴って「日本」とほぼ同義の意味で使用されるようになった。詳細は「天皇」、「律令制」、および「天下統一」を参照
朝鮮モンゴルの宇宙三界説
天上世界・地上世界・地下世界から宇宙が成り立っているとする考え方。天上界から地上支配を代行する「英雄(=テングリの子)」が遣わされ、秩序をもたらす。地上世界は大きく英雄の秩序に服する世界とそれに敵対する世界に分かれ、英雄の支配は徐々に拡大するものと主観されている。トルコ民族にも同様の構造をした世界観が存在する

朝鮮においては、歴史的に「天下」の用例は極めて少ない。それは中国王朝を中心とする天下のなかにあった時期が極めて長かったことによる。高句麗新羅百済の古代王朝、そして高麗の時代にも朝鮮を中心とする独自の天下概念がなかったわけではないが、高麗後期に朱子学が流入すると、名分論の立場から朝鮮中心の天下的世界認識に批判が加えられた。一方で朱子学は自国を「小中華」「小華」などと認識する小中華思想を生んだ。小中華主義は明代中国に流行しながら朝鮮では流行しなかった陽明学を異端視する風潮、清朝による中国支配を「中国が夷狄の支配に服するもの」と規定する認識となり、朝鮮こそが中華の本流であるという思想をはぐくんだ。朝鮮では中国を中心とする「天下」概念と朝鮮を中心とする「天下」概念が並存していた。
ベトナム

ベトナムにおける天下の概念は、13世紀の元寇を契機として民族意識が昂揚するとともに出現した。その天下概念は当初陳朝にいたるベトナム王朝を南越国の後継と位置づけ、その領域であった中国の嶺南地方からベトナム北部に至る地域に固有の天下概念を設定するものであった。ところが18世紀末の黎朝末期のころになると、南越をベトナム王朝の正統とする史観に批判が加えられ、阮朝の時代には自称国号も「大南」となり「越」字が消滅する。このことは当時のヨーロッパ人が「トンキン」「コーチシナ」と呼んだ今日のベトナムの領域に天下国家が設定されるようになったと考えられている。ベトナムの「天下」は主に中越関係に影響されながら、その領域を変容させた。
北方アジアの遊牧民

モンゴルを代表とする北アジア中央アジア遊牧諸民族においては、中国王朝の「天」に対応あるいは類似する概念として「テングリ」概念が存在する。


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