大黒 富治(おおぐろ とみじ、1893年11月15日 - 1965年12月18日)は、秋田県出身の歌人、農業研究家。旧姓丹波。 ⇒[1] ⇒[2](昭和28年、仁別務沢、植物園にて撮影) 1893年(明治26年)11月15日、仙北郡大川西根村(現・大仙市)において丹波常吉とフミの間に六男三女の末っ子として生まれる。 秋田農業学校(現・秋田県立大曲農業高等学校)を卒業後、1909年(明治45年)に鹿角郡の曙尋常高等小学校の代用教員となり、1915年(大正4年)から仙北郡花館村(現・大仙市)の農商務省農事試験場陸羽支場にて農学博士の寺尾博の助手として作物育種事業に従事する。同僚の仁部富之助らとともに冷害に強い米の品種改良に取り組み、陸羽132号、秋田1号、秋田7号などの育種に尽力した。陸羽132号は後のコシヒカリやササニシキの基礎となり東北地方で飛躍的に栽培される。
経歴
過日はご丁重なる御見舞状を賜り難有奉存じ候。小生の病気も思ひの外に長びき今日にて早ゆ五十日、床上の人と相成り候。今月始め非常に衰弱したるところに意外にも血痰を吐きそれより前後三回、危いことに陥り候へしもカンフル注射は幸にも命をとり止め今日あるを得申し候。陽春来と共に快く、二三日めっきり力つき候へば、当分は死なぬ事と定め申し候。次第何卒御安心ヒ下度願上候。桜花の頃には暖地に参り度其折は歌も勉強可仕心組に御座候。柿崎君去りて大兄もお寂しき事とお察し申上候。
相別れたる丹波柿崎両兄に送る
・空とほく雲はゆくとも
別れてし洋一さびしも
富二さびしも
右御礼まで申上候
以上彼岸第二日 春雄 丹波様
5月24日 - 結城哀草果からのハガキ
お見舞いのお手紙なんともありがたくあります。こんなにしてさびしくしておりますとお便りの来るのばかりがなによりのたのしみであります。小生六十日以来の病気でしたが伝染病(病名パラチグス)でしたからお手紙をさしあげる事を遠慮しておりました。只今では全快しましたから安心してください。丹冶さんや柿崎君にもよろしくご伝言して下さればありがたくあります。自分が病気になってみると長塚さんのお歌のすぐれてるのがしみじみわかります。どうかご丈夫でいて下さい。私も以前よりも強く生きて強い歌をつくります。淋しくていますからお便りをねがいます。
◎病癒えて食いたさつのるこの日頃むなしくこもれば雷(いがづち)鳴れり 結城光三郎
1918年(大正7年) - 和歌山県農事試験場技手に就任。麹町のアララギ発行所に島木赤彦が訪れ木曽馬吉(藤沢古実)の案内で亀戸普門院で開かれた伊藤左千夫の忌歌会に出席しアララギ同人、諸会員らと面会する。同年に届いたアララギ会員からの寄せ書き ⇒[5]。
土屋文明詠み◎諏訪蜆いまだ食はねばこひにけり
1919年(大正8年)
1月 - 福島共立病院に入院中の門間春雄を見舞い。その後壱岐信吾の案内で青山脳病院に斎藤茂吉を訪問、短冊を頂く。
5月 - 由利貞三の紀和旅行を迎え高野山、吉野山に遊ぶ。
7月21日 - 島木赤彦からの葉書の内容 ⇒[6]
拝啓 貴君の歌大へん御進みなされ喜しく存じ候。一段丈けとりおき候。毎月御勉強下され度、祈上候。左千夫忌は石碑竣工おくれしため七月三十日に延期致し候。匆々
「このいへに裸となりてゐる心
さびしくなりて端書をおくる」
赤彦や茂吉たちの歌の師である伊藤左千夫の七回忌がこの年の7月30日に営まれたこと、また左千夫の墓がこの七回忌に募金によって建立されたことによつて大正8年の夏(裸)であることがわかる。一段だけとりおき候 というのは、大黒の歌をアララギの1ページの上一段や下一段などに掲載するということ。歌がよいので優遇措置である。
1920年(大正9年)
3月 - 大館町長木川南の大黒徳蔵の長女タミと結婚、大黒姓となる。
11月 - 大館町から妻を呼び秋田市楢山築地下本町に住む。
1921年(大正10年) - 長男創造が大館町長木川で生まれる。
1922年(大正11年)2月 - 秋田県立農業試験場(八橋)技手に就任。
1925年(大正14年)10月30日 - 恩師、島木赤彦が角館中学校校歌作詞のため平福百水の案内で田沢湖、角館付近を視察に同行。夜は石川旅館にて同宿し、翌朝に大威徳山に従い登る。
1926年(大正15年)
3月27日 - 恩師の島木赤彦が下諏訪町柿蔭山房にて逝去。
10月27日 - 長兄丹波勘七郎死去。