大露羅敏
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大露羅 敏


基礎情報
四股名大露羅 敏
本名Анатолий Валерьевич Михаханов
(アナトリイ・ヴァレリエヴィチ・ミハハノフ)
愛称ロラ、理事長秘書[1]
生年月日 (1983-04-26) 1983年4月26日(41歳)
出身 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ブリヤート自治ソビエト社会主義共和国
(現・ ロシアブリヤート共和国
身長190.5cm(現役時)
体重292.6kg(現役時)
BMI74.53(現役時)
所属部屋北の湖山響
成績
最高位東幕下43枚目
生涯戦歴376勝382敗12休(110場所)
データ
初土俵2000年3月場所
引退2018年9月場所
備考
大相撲史上最重量力士
2018年9月26日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

大露羅 敏(おおろら さとし、1983年4月26日 - )は、ロシア連邦ブリヤート共和国出身で、山響部屋(入門時は北の湖部屋)に所属した元大相撲力士。本名はАнатолий Валерьевич Михаханов(アナトリイ・ヴァレリエヴィチ・ミハハノフ)。現役時代の体格は身長190.5cm、体重292.6kg、血液型O型。最高位は東幕下43枚目(2011年11月場所)。

2017年8月22日の健康診断では体重が288kgと測定され、大相撲史上最重量の記録を更新し[2]、更に2018年9月場所前の健康診断では体重が292.6Kgとなり、自身の持つ重量記録を更新した[3]。また、日本相撲協会理事長を務めた北の湖の生前に誰よりも可愛がられ、北の湖が死去するまで14年間という長きに亘って付け人を務めたことでも知られる[4]
来歴

1983年4月26日に当時のソ連で生まれ、幼少期から桁外れの体格だった[5][6]。8歳の時、初めて大相撲を観戦したことがきっかけで大相撲の世界に憧れ、力士になりたいと思ってはいたが、大相撲への入門の機会が無く力士になれずにいた。16歳の頃には既に200kg近い体重で、オートバイを軽々と持ち上げるほどであり、この噂を聞いた北の湖親方(第55代横綱北の湖)が大相撲の世界へスカウトし、入門が決まった。史上初のロシア出身力士でもある。出身地のブリヤート共和国モンゴルの北に隣接し、モンゴル系住民の多い地域であり、大露羅自身、引退後のtwitterでモンゴル系の民族衣装を着て写真を投稿している。

2000年3月場所、17歳で北の湖部屋から初土俵を踏んだ。同期生には龍皇寶智山飛天龍らがいる。四股名オーロラにちなんでポール牧が命名している。下の名前の「満」、後に「敏」は北の湖の本名の下の名前「敏満」から一字をもらった。

角界に勧誘された当初を本人は「『北の湖って誰?』って思っていた」と後に振り返っており、入門後に「こんなにすごい人なんだな、と思った」と北の湖の偉大さを痛感したという。

自ら動かず攻め疲れを待つ相撲を取るがその体重のせいで機敏な動きに難があり、2002年5月場所で三段目に初昇格して以降はほとんどの場所を三段目で過ごしている。2008年1月場所で初めて幕下へ昇格しているが定着できず、三段目での土俵が中心となっていた。

2017年1月31日の健康診断では283.8sを記録し、自己最高記録の279.5sを更新。「いつも一週間前からダイエットするけど忘れていた」と話し、それでも強気に「(小錦の体重も)ご飯食べれば、すぐ超えちゃうよ」とニヤリ。ちなみに握力は右38s、左40s[7]。そして、同年8月22日の計測では、自己最高をさらに更新して、ついに小錦の記録を破る歴代新記録の288.8kgと計測された[2][8]。しかし肝心の戦績は対照的に下降し、同年の9月場所では14年ぶりに序二段に落ちてしまった。2018年8月27日の健康診断では292・6キロを計測し、自身の持つ最重量記録を更新。「運動して(体重を)気にして、これだからね。300キロを超える人はすごいね」と、300キロに迫っていることを、他人事のように話し、また、入門当初から指導を受けた北の湖からの「小錦を超えてみろ。何でも1番になった方がいい」珍アドバイスの存在も明かしつつ「無理だと思っていたけど自然と超えちゃってたからね」と、笑って話した[9]

2018年9月場所で引退[10]し、場所後の10月7日にロシアへ帰国した[11]。今後は日本とロシアの間を巡るスポーツイベント関連の仕事に就く予定である[12]

帰国後、トレーニングやバーニャ(ロシアの蒸し風呂)などで減量に励む姿をTwitterやInstagramで公開している。2019年5月末には60kg減の230kg弱[13]、10月に来日[14]したときの本人Instagramによると、292kgの体重でロシアに戻ったが、山響部屋の体重計で測ったところ198kgであったという[15]。2020年4月時点の本人の報告では190kgになっており[16]、翌5月下旬の報道では185sになったと伝えられている[17]
エピソード

2012年1月場所8日目、この日の三段目の取組で体重差約190kgの対戦が実現した。体重83kgの大原が、現役最重量の当力士と対戦。大原は動き回った末、最後は寄り切られそうになったが、大露羅に勇み足があり、大原の勝ちとなった。

2012年1月場所に高見盛がその場所の新関取であった阿夢露の話題を提示されて「大露羅?ちょっと間違えやすいな。」と発言したことがある[18]

2012年に弟の結婚式に出席するためにロシアへ帰郷する飛行機に搭乗した。しかし巨体が祟ってベルトが切れる、トイレに入れない等不便で恥ずかしい思いをしたため再来日直後「僕、もう二度と嫌です」と涙目でその辛さを語っていた。この話題を扱った同じ記事に「箸は爪楊枝、丼は茶碗に見えてしまう」という大露羅の巨漢ぶりを表現する記述も存在する[19]

2001年9月場所12日目の6番相撲で珍手・掴み投げを記録した(平成以降2015年11月場所14日目終了時点で幕内においては記録されていない)。掴み投げは両力士に圧倒的な体格差があって成立する技であり、これも大露羅の巨漢ぶりを示す逸話と言える。

かつて焼き肉店で最大50人前を注文し、ラーメン丼のご飯を4杯分とラーメン6杯を食べたこともあった。しかし、2017年8月の取材では「昼は食べるけど、夜はあまり食べていない」と摂生していたと言っている。前述の計測で最重量記録を更新した際、もし北の湖が生きていれば「バカ野郎」と言われるだろうと苦笑い[20]

みかんが好物で「ダンボール一箱分のみかんを1日で完食した」という話もある。ただし本人はそれについて「噂は噂にしておきましょうよ。僕は化け物じゃない。人間ですから」と答えている。

現役最終盤には太り過ぎと体力の低下から土俵を立って踏み上がることができず、這って土俵に上がっており[21]、蹲踞もままならなかった。巨人力士を描いている相撲錦絵師の木下大門は2018年の名古屋場所でその姿を見て、記録に残すために錦絵を描いた。錦絵は同年9月場所初日から販売されたが、幕下以下の力士のグッズ販売を相撲協会が認めず販売中止となった[22]

師匠の北の湖とは、生きていれば定年となる2018年5月まで現役を続ける約束をしていた[23]。北の湖が死去した頃には既に体重をまともに支えられる体ではなくなっていたが、北の湖との約束を守るために現役にこだわった。2015年の師匠の最期まで付け人として世話をし[24]、亡き後もその約束を守って2018年9月場所まで現役を続けた。同年9月21日、現役最後の取組後には土俵に手を合わせていた[25]

北の湖のことは「親父」と呼んでいた。

酒も強く、現役時代は「1晩でビール1ケース(500ml×24本)」「北の湖と共に2人で5升の焼酎を飲み干した」という逸話を残した[17]。極度の肥満体であったこともあって汗かきで、飲んでもすぐに汗として流れたため、すぐに酔いが醒めたという。

現役当時は高血圧で収縮期が180であり、引退直後はウォーキングにも酸素ボンベが必要なほどであったが、食事を5回に分けて少量ずつ食べる、ジム通いを行う、夜は茹で野菜だけで我慢して夜7時以降は食べ物を口にしない、などのダイエットを引退後に敢行。


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