大雲寺
所在地京都府京都市左京区岩倉上蔵町305
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度04分48秒 東経135度46分56秒 / 北緯35.08000度 東経135.78222度 / 35.08000; 135.78222
大雲寺(だいうんじ)は、京都府京都市左京区岩倉にある仏教寺院。宗旨は天台寺門宗系単立(天台證門宗)。山号は「紫雲山」または「石座山」および「岩蔵山」。本尊は十一面観音菩薩で、岩倉観音・観音院などとも称される。目次 縁起によれば、天禄2年(971年)に比叡山延暦寺で法会があり、多くの公卿らが五色の霊雲の立ち昇るのを見た。中納言日野文範がこれを見て山を下り、霊雲の谷(岩倉)に至った。そこで老尼(石座明神)と出逢い、その地が観音浄土の地と知り、伽藍建立の適地として喜んだ。このことが時の天皇の耳に達し、文範が真覚
1 歴史
2 文化財
3 所在地
4 脚注
5 参考文献
歴史
また、大雲寺建立と同時に鎮守社として境内に石座神社を移して祀っている。
天元3年(980年)には円融天皇の勅願所となる(小右記目録)。
永観3年(985年)には、冷泉天皇中宮・朱雀天皇皇女である昌子内親王により、寺内に観音院が建立された(日本紀略)。このことから昌子内親王を観音院太后とも称する。真覚の子の文慶法印が観音院の初代別当となった。内親王の墓は大雲寺の近くに岩倉陵として残っている。
園城寺長吏、法性寺座主を務めた僧余慶(智弁)は観音院僧正とも呼ばれ、大雲寺・観音院との関係が深かった。天元4年(981年)、余慶は一門の僧数百人を連れて大雲寺へ移ったが、これは余慶らの園城寺の寺門派と延暦寺の山門派との対立を背景とするものであった。この頃の大雲寺・観音院は四十九の堂塔伽藍と千人に及ぶ僧を擁した大寺院であったが、その後の寺門・山門の抗争により、寺門派の別院であった大雲寺はたびたび兵火に見舞われ、焼失を繰り返した。保延2年(1136年)には当時残っていた伽藍が全焼してしまったことが『中右記』同年3月12日条にみえる。
延久元年(1069年)後三条天皇の第三皇女が狐に憑かれた時、大雲寺の観世音に祈願し、大雲寺の井戸の水を飲んでいたところ治ったという伝承「御香水之由来」がある。憑かれた人達が、あやかろうと参るようになる。
文明6年(1474年)、洛中の今出川小川(現・上京区実相院町)にあった実相院が、応仁の乱の戦火を逃れるため当寺の塔頭であった成金剛院の跡地である現在地に移転してくるが、以後両者は度々対立している。
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちに際して当寺も焼失している。江戸時代に入り寛永18年(1641年)後水尾天皇の後援を得て、実相院門跡義尊により本堂等が再建されたが、1985年(昭和60年)に人災により寺地が失われ、旧境内からやや離れた石座神社東側にある塔頭宝塔院の旧地に移転し、仮本堂が建てられた[2]。
旧寺地には余慶僧正ゆかりの閼伽井(智弁水)や不動の滝、周辺には実相院宮墓、智弁(余慶)墓、昌子内親王岩倉陵などが残る。
往時の佇まいはないものの秘仏ならびに寺宝類全ては仮本堂に保管され、「脳病平癒の御利益」を求めて全国からの参拝者が絶えない。また戦後独立して天台證門宗の総本山となって法脈は絶えることなく受け継がれている。この患者の世話をする茶屋などの伝統を受けて旧寺地を含む周辺には複数の精神病院が立地している。
『源氏物語』「若紫」の巻に登場する「北山のなにがし寺」のモデルがこの寺(または鞍馬寺)であるとする説もある(歴史学者角田文衛の説)。 大雲寺旧蔵の梵鐘(国宝)は、天安2年(858年)の銘があり、もと比叡山西塔に伝来したとされるものである。現在は佐川美術館所蔵。 [脚注の使い方] 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2018年9月)
文化財
所在地
京都府京都市左京区岩倉上蔵町305
京都バス「岩倉実相院」バス停下車。徒歩数分。
脚注
^ 恕融; 竹田源(訳者) (1996年11月(訳本)) [元禄12年(原本)]. 大雲寺堂社旧跡纂要. 中村印刷
^ 大雲寺公式サイトに、1985年に「人災」「法難」によって伽藍が消滅したとあるが、そのくわしい事情については説明されていない。
参考文献
『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
竹村俊則『昭和京都名所図会 3 洛北』、駸々堂、1982
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更新日時:2022年3月3日(木)04:55
取得日時:2022/04/08 08:14