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大陸軍
Continental Army
国籍 13植民地
主な戦歴アメリカ独立戦争
ボストン包囲戦
ロングアイランドの戦い
ハーレムハイツの戦い
ホワイト・プレインズの戦い
トレントンの戦い
アッサンピンク・クリークの戦い
プリンストンの戦い
ブランディワインの戦い
ジャーマンタウンの戦い
サラトガの戦い
モンマスの戦い
チャールストン包囲戦
大陸軍(たいりくぐん、英: Continental Army)は、アメリカ独立戦争において後にアメリカ合衆国となった13植民地によって編制された軍隊。第2次大陸会議における1775年6月14日の決議に基づいて発足し、グレートブリテン王国の支配に対して反乱を起こした13植民地の軍事行動について連携を図ることを目的とした。日本の歴史教科書では単に「独立軍」と表記するものもある[1][2]。大陸軍は各植民地の配下に留まった民兵組織や独立の民兵集団などによって補完されていた。独立戦争の全期間を通じてジョージ・ワシントンが総司令官を務めた。
パリ講和条約締結による終戦後の1783年11月3日、ほとんどの大陸軍部隊は解散した。1784年6月3日の大陸会議の決議によって、小さな地域軍隊がウェストポイントと幾つかの辺境の前哨基地に残された。第1連隊と第2連隊は1792年にアンソニー・ウェイン将軍の下に編制されたアメリカ合衆国軍団(英語版)[注釈 1]の基幹兵力となり、1796年に発足したアメリカ陸軍の基礎となった。 1775年4月にレキシントン・コンコードの戦いでアメリカ独立戦争が始まったとき、アメリカ植民地の独立推進派勢力には軍隊が無かった。それ以前の各植民地は地方の防衛のために一時的な市民兵からなる民兵隊に頼るか、フレンチ・インディアン戦争参戦のような特別の目的で一時的「植民地連隊」を立ち上げるかだった。独立戦争に繋がる数年間でイギリスとの緊張関係が高まったときに、アメリカ植民地人は将来の抗争に備えて民兵隊を結成し始めた。1774年に耐え難き諸法が成立した後は民兵隊を訓練する機会が増した。リチャード・ヘンリー・リーのような植民地人は植民地全体にわたる民兵隊の創設を提案したが、第一次大陸会議はこの考えを拒否した[3]。民兵隊は完全に数が足りていなかった。レキシントン・コンコードの戦い後、ニューイングランド中から数千の民兵がイギリス軍に対抗するために集まりボストン包囲戦を始めた。 4月23日、マサチューセッツ湾植民地議会が26個中隊からなる植民地軍の立ち上げを承認し、その直ぐ後にはニューハンプシャー、ロードアイランドおよびコネチカットの各植民地から類似しているが小規模の軍隊が立ち上げられた。6月14日、第二次大陸会議が植民地共通の防衛のために大陸軍を設立することを決議した。「12の連合した植民地」(この時点ではジョージアがまだ会議の代表を送っていなかった)として、大陸会議はマサチューセッツのボストン郊外ケンブリッジに既に在った軍隊(22,000名)とニューヨークにあった軍隊(5,000名)を大陸軍の最初の部隊に公認した。
結成、組織化、再編成