大陸法
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大陸法(たいりくほう、: civil law)とは、英米法コモン・ロー: common law)からみた場合の西ヨーロッパ大陸で発展・採用された法系をいう。直訳すると市民法。
概説

大陸法ないし大陸法系は西ヨーロッパで発展し、ヨーロッパ大陸諸国で広く採用されるに至った法系である。日本明治維新の際に採用し、東アジア諸国にも広まった。
歴史

大陸法の起源はローマ法にある。ローマ法はもともとローマ市民にのみ適用される「市民法」(Ius Civile、ユス・キウィレ)であったが、ローマ帝国の発展・拡大に伴い、ローマ市民外国人、外国人同士の取引に適用される「万民法」(Ius Gentium、ユス・ゲンティウム)を生み出した。ローマ法においては市民としての一個人が個人として尊重され、個人の意思から出発し、法主体間の平等を基本とする私法を中心とした法体系が発達したのである。

西ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパではゲルマン民族が元来有していたゲルマン法が適用されるようになったが、東ローマ帝国では従前のとおりローマ法が適用され続けた。

もっとも、西ヨーロッパでも南フランスなど一部の地域ではゲルマン法と混交したローマ法である卑俗法が適用されていたが、両法の混交の濃淡の程度は法域により異なっていた。

やがて、西ヨーロッパではローマ法と共に古代ローマの文化遺産は忘れ去られ、神判決闘による裁判が主流の時代が続いたが、6世紀に東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が編纂した市民法大全の「学説彙纂」(がくせついさん)の写本、いわゆる「フィレンツェ写本」がイタリアにおいて再発見されたことを端緒に、ボローニャ大学でローマ法の研究が始まり発展するとヨーロッパ全土から留学生が集まり、そして、大陸諸国で大学(universitas、ウニウェルシタス)が次々と設置されて研究されるようになった。当時の大学はローマ・カトリック教会とは切っても切り離せぬ関係にあり、ローマ法の研究成果は教会法の発展をうながし、ローマ皇帝のもった立法権がローマ教皇の立法権を理論付けることに成功したのである。このころの著名な法学者としては、スコラ哲学演繹法を使って法を体系化することにより、実用性に難点の多かったアックルシウス註釈学派に替えて後期註釈学派を発展させたバルトールス・デ・サクソフェラート(1313年 - 1357年)がいる。

中世末には、ローマ・カトリックの教会法であるカノン法はカトリック信者であれば適用される普遍性を有する「一般法」(jus commune、ユース・コムーネ)の概念を成立させ発展させた。このようにして、西ヨーロッパ大陸ではローマ・カトリックの権威を背景にローマ法が広く受け入れられるに至ったのである。そのうちでも、最もローマ法に忠実なのはドイツであるといわれている。
近世の大陸法

近代大陸法の重要な提唱者には、ドイツのアルトゥジウスが挙げられる。その理論は、カルヴァン主義契約神学に立脚した自然法論であり、君主による専制支配については抵抗権、当時のドイツの身分制議会を背景とした間接民主主義(代表制議会)、また、君主の持つ主権を国民全体に帰属させる国民主権連邦主義を認めた。


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