大陪審
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大陪審(だいばいしん、: grand jury)は、一般市民から選ばれた陪審員で構成される、犯罪起訴するか否かを決定する機関をいう。起訴陪審(きそばいしん)ともいう。

大陪審は、アメリカ合衆国において、権力分立(チェック・アンド・バランス)の仕組みの一貫と考えられており、検察官の処分だけで事件が裁判(対審)に付されるのを防ぐという意図がある。目次

1 概要

2 歴史

3 各国の大陪審

3.1 アメリカ合衆国

3.1.1 連邦レベル

3.1.2 州レベル

3.1.3 手続

3.1.3.1 陪審員の選任


3.1.4 審理

3.1.4.1 審理の密行性

3.1.4.2 起訴状の発付又は棄却



3.2 アメリカ以外の国における大陪審

3.2.1 イギリス及び英国連邦諸国

3.2.2 日本



4 大陪審に関する議論

5 脚注

6 参考文献

7 外部リンク

8 関連項目

概要

大陪審はコモン・ロー(英米法)上の制度であり、イギリスで発達し、アメリカ合衆国に受け継がれたが、現在、大陪審を実施しているのはほぼアメリカのみである。

刑事又は民事の事実審理(トライアル)に関与する通常の陪審(小陪審、petit jury)よりも構成人数が多いことから、大陪審という名称が生まれた[1]。伝統的に、大陪審は23人、小陪審は12人で構成されていた。

大陪審は、検察官の提出した証拠を審査した上でインダイトメント (indictment) と呼ばれる正式起訴状を発付する場合と、自ら犯罪を捜査してプレゼントメント (presentment) と呼ばれる正式起訴状を発付する場合がある。もっとも、現在はプレゼントメントは利用されていない。
歴史「陪審制#歴史」も参照

イギリスでは、10世紀末頃、サクソン族が大陪審に類似した制度を持っていたとされる。また、1066年ノルマン・コンクエストにより、大陸から大陪審の原型となる制度がもたらされたとされる。現在の大陪審制の基礎を作ったのは、イングランド王ヘンリー2世が1166年に制定したクラレンドン勅令(英語版)であった。彼は、トマス・ベケットの専横に対抗して国王の権力を回復するための政策として、村ごとに12人の「善良かつ法律に従った男たち」を集め、犯罪を犯したと疑われる者の名を明らかにさせた[2]。1215年のマグナ・カルタでは、ジョン王が貴族の要求に応じて起訴陪審を認めた。

1290年頃には、起訴陪審には、橋や公道の維持管理や監獄の欠陥について、また州長官が、司法の手に委ねられるべき者を拘束していないかについて調査する権限が与えられていた。エドワード3世の治世(1368年)には、起訴陪審の人数が12人から23人に増やされ、被疑者を起訴するためには過半数の同意が必要とされた[3]

アメリカ合衆国では、マサチューセッツ湾植民地で 1635年に組織されたのが最初の大陪審とされる。植民地の大陪審は、1765年の印紙法について起訴を拒否するなどし、その独立性を示した[4]。独立後、1791年に批准された権利章典(憲法修正5条)で大陪審が保障された。
各国の大陪審
アメリカ合衆国
連邦レベル 連邦大陪審の発付した正式起訴状

アメリカ合衆国憲法修正5条は、軍で起きた事件を除き、「何人も、大陪審のプレゼントメント又はインダイトメントによらなければ、死刑に当たる罪又はその他の不名誉罪(自由刑を科せられる犯罪)に問われない。


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